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滝口悠生著『高架線』 南長崎のおんぼろアパートで繰り広げられる不思議な人間ドラマ

【街歩き的ブックガイド】滝口悠生さんらしい、不思議な浮遊感がただよう作品です。舞台は、西武池袋線の東長崎駅から江古田方向に歩いて5分の「かたばみ荘」。物語が始まる2001年ですでに築40年を超える木造のおんぼろアパートです。

 

物語の舞台となった西武池袋線東長崎駅前の商店街

数人の語り手が順々に紡いでいく物語

かたばみ荘は、「退去時に次の住人を紹介しなくてはならないという変な規則があるアパート」で、こうした設定のおかげで思いもよらない奇妙なストーリーの展開が可能になります。冒頭、次のように始まります。

「新井田千一です。私の実家は池袋駅から西武池袋線で下って行って埼玉に入ったあたりで、幼少期から二十歳までそこで過ごした。」

物語は、数人の語り手が順々に紡いでいきます。語り手は、それぞれの挿話のはじめに、「七見歩です」「峠茶太郎です」と名前を告げてから、話し始めます。そのつど、「ヒロシです」と名乗ってネタを披露するピン芸人が思い出されます。

最初の語り手の新井田千一は、「自分でもわかっているのだけれど、話をしようと思うとなかなか本題にたどり着かなくて困る」性格で、新井田の次にかたばみ荘に住むことになった片川三郎の失踪事件とは「直接関係がない」としながらも、高校時代に文通していた女性とのエロい手紙のやりとりについて、ながながと語り続けます。そのあげく、「さあ、ようやく片川三郎が失踪しますよ。」といって本題に入るのですから、なんとも人をくった小説です。

新井田と片川は、共通の友人に互いに紹介され、引っ越しのときに会っただけで、格段深いつきあいがあるわけではありません。引っ越し以来、5年ぶりに大家の「万田夫人」から電話があり、「困っちゃって。」「新井田さん、また住みませんか。」なんて無理難題をふきかけられ、それを「常識外れ」と感じながらも、「あの部屋にあった妙な連帯意識が戻ってきた」ことから、失踪した三郎を探し始めます。そこで語り手は、三郎の幼馴染みの七見歩(ななみ・あゆむ)にバトンタッチされます。

作品から感じられる作者の温かな人間観

七見も同じように三郎を探すことになります。そして、勘定高い大家さんに言いくるめられ、三郎の家賃の一部を肩代わりすることになります。この小説、読んでいると、「なんで、こんなにお人好しなの?」と思ってしまう箇所がいくつかあります。かたばみ荘への妙な連帯感が戻ったとはいえ、新井田が、二度しか会ったことのない三郎を探し始めるのは不可解ですし、七見だって、幼馴染みとはいえ、その語りの内容からして、家賃の肩代わりまでしてあげるほど親しかったようには思えません。それでも、そうした不自然なストーリー展開が許せるのは、「人って周りに困った人がいると助けてあげるよね」「互いに信頼していいんだよね」といった、願望にも似た作者の温かな人間観が感じられるからかもしれません。

新井田とタムラックスが、2人でビールを飲んだとおぼしき南長崎はらっぱ公園

七見と一緒に三郎を探しに出掛けた七見の婚約者と三郎のバンド仲間のTam‐lux(タムラックス)が、次のような会話を交わすシーンがとても印象的でした。2人はこの日が初対面です。

私のことはどう思いましたか。

何がですか。

ひと目で何かわかりましたか。いい人だ、とか、肌合わねえな、とか。

この人にならどんなひどいことされても構わない、と思いました。

ははは。

嘘です。信頼できる人だと思いました。

ほんとに?

今話してて、そう思いました。

七見の語りから、三郎が失踪に至るまでのだいたいの経緯がわかります。さて、三郎は見つかるのでしょうか。

物語の途中で、登場人物のひとりが、ある有名な日本映画のストーリーを熱く延々と語る場面があります。「今、映画のどのあたりまで進んだの?」と聞かれて彼は、こう答えます。

「まだはじまってから三分くらいのところだよ。」

そう。三郎の失踪事件は、かたばみ荘とそれに縁のある人たちの壮大な物語の一部でしかありません。ぜひ、一読して、最後にかたばみ荘の謎が明かされるシーンでほんわかした気分になってください。

商店街がつらぬく暮らしやすそうな町

物語の舞台になった豊島区南長崎を訪ねてみました。駅名は「東長崎」なのに、地名は「南長崎」なのです。なんともややこしいです。

駅の南口からまっすぐ南の方向に長崎銀座商店街がつらぬいていて、日々の生活に必要なものをだいたい求めることができます。とても暮らしやすい町のようです。

商店街を抜け、しばらく歩くと、新井田とタムラックスが、かたばみ荘の大家を訪ねたあと、2人でビールを飲んだとおぼしき公園が目にとまりました。南長崎はらっぱ公園です。目白通り沿いと書かれていたので、騒がしいところかと思いきや、道路側が植栽で目隠しされており、公園の中は独立した空間となっており、とてもくつろげます。

かたばみ荘の2階からは西武線の踏切が見えるという設定になっている。

続いて、かたばみ荘を探して町を歩きました。駅から江古田方向に歩いて5分のかたばみ荘の2階外廊下からは、西武線の踏切が見え、線路の敷かれている部分が盛土になっており、そこで老婆が転倒し、それを見ていた住人が慌てて階段を転げ落ちて骨折します。最後まで読むと、この場面が重要な意味を持っていたことに気づかされます。

探してみると、ありました。確かに盛土になっており、踏切の反対側の道を見通すことができません。かたばみ荘はこのあたりにあったのか、と思うと、ちょっとうれしくなりました。

Profile

二居隆司

読売新聞に入社以来、新聞、週刊誌、ウェブ、広告の各ジャンルで記事とコラムを書き続けてきた。趣味は城めぐりで、日本城郭協会による日本百名城をすべて訪ねた。

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