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乗代雄介著『旅する練習』 鹿島神宮まで歩いて旅するサッカー少女 

【街歩き的ブックガイド】主人公の1人の亜美は、中学受験を終え、入学前の国語の課題として進学先の学校から出された日記書きについて、自分には書くことがなにもないと困っています。そうした亜美に、もう1人の主人公である叔父の作家は、利根川沿いに鹿島まで歩くサッカー合宿の旅を提案します。亜美はサッカー少女で、中学の進学先も女子のサッカー名門校です。サッカーとオムライスが大好きな愛くるしい少女として終始、描かれています。

リフティングする少女と風景を文字でスケッチする作家

その前年の夏、亜美は男子ばかりのチームで、鹿島アントラーズの本拠地である茨城県の鹿島に合宿に行ったことがあります。その宿舎で借りたままの本を返しにいきたいと亜美が言っていたことからの提案です。作家が出した条件がひとつあります。作家はふだんから、気に入った風景をスケッチするがごとく、文章に書き表す練習を続けています。鹿島までの旅の合間に作家が文字でスケッチする間、おとなしく待っていてほしい、というのがその条件です。亜美は、叔父がスケッチしている間、ボールのリフティングの練習をすることにします。

タイトルの『旅する練習』は、文字通り解釈すると「旅をする」ことの「練習」になりますが、亜美にとってはリフティング、作家にとっては書くことの「練習」の「旅」ということになります。

志賀直哉邸跡
物語の冒頭、亜美が最初のリフティングの練習をした志賀直哉邸跡

白樺派の作家・志賀直哉邸跡で最初のリフティング練習

旅は、千葉県の我孫子から始まります。我孫子はかつて、作家の志賀直哉や民藝運動で知られる美術家の柳宗悦、講道館の創設者・嘉納治五郎らが集った白樺派の拠点でした。旅の初日、さっそく作家は、志賀直哉邸跡で文字によるスケッチを始めます。その冒頭部分を少し、ご紹介します。

<三月九日 11:40~12:12

 ハケの道は崖線沿いの道全般を指すが、ここでは、手賀沼公園のある小さな入江から崖の前を通る文化財の多く残る道を通りの名にしているようだ。住宅の並ぶ細い道に面した、一段上がった存外広い敷地が志賀直哉邸跡である。>

2人はこのあと、「鳥の博物館」を訪ねるものの休館でした。作家はとても落胆し、それを亜美はしきりに茶化し、帰りに2人で再度訪ねることを「約束」します。のちに、この「約束」が、とても重要な意味を持つようになり、それが読後明らかになります。

同じ我孫子にある新四国相馬霊場の36番札所の「滝前不動」で旅の無事を祈った際に、亜美はそのお寺の前の石碑に刻印された「真言」を覚え、リフティングの前に呪文として唱えることを思い付きます。そういうかわいらしい思いつきが、亜美の亜美たる所以です。

滝前不動
亜美が「真言」を覚えた「滝前不動」下の石碑

ジーコのファンの「みどりさん」と出会い、一緒に旅することに

ここまでが1日目で、2日目に大学生でその春に就職する予定の「みどりさん」と約12万年前に古東京湾に堆積した砂層である国指定天然記念物の「木下貝層」で知り合いになり、一緒に鹿島まで歩いて旅することになります。

旅の合間の文字による作家のスケッチには、キジやコブハクチョウ、カワウなどの鳥の描写が頻繁に出てきます。それらは鋭利な刃物のような緊張感のともなったもので、物語の先にあるなにか黒い影のようなものを感じさせます。一方で、就職後の仕事や暮らしに不安を覚えるみどりさんに寄り添う亜美の姿はとても微笑ましく感じられます。みどりさんは「サッカーの神様」ジーコのファンで、彼にひかれた理由には、おおいに共感するところがありました。

亜美のシューズの赤いヒールが目に浮かぶ

旅の舞台を訪ねてみました。志賀直哉邸跡は、JR我孫子駅から歩いて10分ほどです。そこには「母屋はもうないが、その実寸の間取りがコンクリートで示されて」います。その間取りの土間のあたりで亜美はリフティングをします。中学の合格祝いで買ってもらったサッカーシューズ、ミズノのモレリア、黒の定番モデルの赤いヒールが躍動する様子が目に浮かびます。「滝前不動」までは車で5分くらいで着きます。亜美が真言を覚えた石碑が、本堂につながる階段下にありました。

利根川沿いに車で移動し、3人が渡った利根川にかかる小見川大橋と霞ヶ浦の一部である常陸利根川にかかる息栖大橋を経て、茨城県に入り、最後に常陸国一之宮の鹿島神宮に着きます。

息栖大橋
亜美ら3人は常陸利根川にかかる息栖大橋を渡って茨城県に入ります

樹齢1000年を超える鹿島神宮奥参道の杉並木

鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神で、創建は神武天皇の御代で、「皇紀元年、即ち紀元前六六〇年の頃」と参拝のしおりにあります。重要文化財の楼門から入ると右手に拝殿があり、その先に樹齢1000年を超える杉木立に囲まれた奥参道が続いています。拝殿で参拝し、御神籤を引いた3人は、奥参道を進みます。拝殿から奥宮までは歩いて5分ほどです。杉木立が天を覆うようで、荘厳な感じで満ちています。登場人物の3人は、旅の最後にどのような思いを抱いてこの道を歩いたのでしょうか。物語の舞台を実際に歩いてみて、改めてこの小説が与えてくれた感動を思い起こすことができました。

『旅する練習』は、今年の三島由紀夫賞の受賞作で、第164回(2020年下期)芥川賞の候補作でもあります。乗代さんには、同じように芥川賞の候補になった『最高の任務』(第162回、2019年下期)という作品があり、こちらも主人公が旅する設定になっています。街歩きと本が好きな方におススメです。

鹿島神宮の奥参道
荘厳な雰囲気が漂う鹿島神宮の奥参道。登場人物の3人は、どのような思いでこの道を歩いたのでしょうか。

Profile

二居隆司

読売新聞に入社以来、新聞、週刊誌、ウェブ、広告の各ジャンルで記事とコラムを書き続けてきた。趣味は城めぐりで、日本城郭協会による日本百名城をすべて訪ねた。

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