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山田詠美さんの酷評にもめげず芥川賞に再チャレンジした 古市憲寿『百の夜は跳ねて』

【街歩き的ブックガイド】今回、ご紹介するのは、テレビ番組でもよく見かける社会学者で作家の古市憲寿さんによる第161回(2019年上半期)芥川賞候補作品です。古市さんは、その前回の第160回(2018年下半期)にも、『平成くん、さようなら』で芥川賞の候補に挙げられています。その際に、選考委員の山田詠美さんに酷評されたのが、個人的にとても印象に残っています。

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山田詠美さんの選評が掲載された文藝春秋2019年3月号から引いてみました。

「(前略)この作者は、発表の翌朝、TVのワイドショーで、『純文学にはうじうじする主人公が多いけど、自分の作品は自己肯定だから駄目だった』というような落選の弁を述べていたが、これまたマジですか? 自己肯定ではなく自己過信の間違いではないのか。(中略)やれやれ…平成くん、さようなら。」(文藝春秋2019年3月号)

なんだか、随分手厳しい感じがしませんか? 山田さんは、「純文学はうじうじする主人公が多い」あたりに、かちんとこられたのかもしれません。ご本人がどう思っていたかは定かではありませんが、この第161回は古市さんにとって、前回のリベンジを期したノミネートのように、芥川賞ウォッチャーの目には映りました。結果は、残念ながら、受賞とはなりませんでした。

JR浜松町駅の周りには、物語にあるようにタワーマンションがいくつも建っています。

主人公の翔太は、大学を卒業して2年目の窓ガラス清掃員です。清掃員は、シャンプー棒でガラスを濡らし、スクイジーで水を切ることで、窓ガラスをきれいにします。その「水を切る」作業を、業界では「かっぱぐ」というそうです。物語は、翔太と3歳の子どもがいるシングルマザーの美咲さんと2人でゴンドラに乗って、汐留の55階建てタワーマンションの窓ガラス清掃をしている場面から始まります。

「ゴンドラは手すりの下は内部が隠れる構造になって」います。そこで、しゃがんだ美咲さんが、翔太のズボンのチャックを開け、ペニスを弄(もてあそ)びはじめます。「おぉ、古市、やるじゃん」という感じです。ただ、ちょっとあざとい感じもなきにしもあらずです。

翔太はその作業中に、37階に住む老女から、あるメッセージを受け取り、訪ねていきます。そこで、老女から、ある依頼をされます。その依頼の着手金として渡されたのは、ほぼ3か月分の翔太の給料と同じ額でした。翔太はその依頼を受け、老女の望む品をタワーマンションに届けます。

主人公の翔太のアパートは目黒川沿いで近くに神社があるという設定です。

翔太は、「中学校まではテストで90点を割ったことは」ない優等生で、「受験に失敗したり、単位を落としたりする人がいること自体、信じられ」ないほどの自信家でした。「就活が大変だというニュースが報道されるたびに所詮は他人事だと思っていた」のですが、ことごとく採用試験に落ち、高層ビルから飛び降り自殺でもしようかと、ビルを見上げているときにガラス清掃の仕事を目にし、「自分が全く意識することのなかった仕事というのがいい」と思い、その仕事に就きます。いまの若い世代の生きにくさを描いているように感じます。

翔太の住んでいるのは、品川区の新馬場のアパートで家賃は5万5000円。ロケーションを考えると、そう広い部屋ではなさそうです。ふだんの買い物は近所の「マルエツ」で、「きちんとしたレストラン」で食事をしたのは、「一昨年の正月に母と妹で実家の近所の木曽路に行った」ことくらいしか記憶にありません。一方の老女は麻布の生まれで、その話からすると、海外での居住経験があり、かなり豊かな暮らしをしてきたことを察することができます。住んでいるタワーマンションのエレベーターのモニターには、「カルティエウォッチコレクション特別ご招待」とか「BMW330iデビュー6320000円」といった高級品の広告が掲示されます。翔太は、「お金には困っていない老婆と僕とでは、孤独の質が違う」と思います。格差社会に対する問題提起も込められているようです。

物語の合間合間に翔太に語りかけてくる謎の声も、小説そのものに不思議な余韻をもたらしてくれます。前作の『平成くん、さようなら』がどこか作り物めいた感じがしたのに対して、本作はかなりリアリティのある内容で、より好感を持って読むことができました。

では、第161回の山田詠美さんの選評をみてみましょう。それによると、『百の夜は跳ねて』の参考文献の中に、書籍化されていない小説があるそうで、山田さんはそれを入手して読んだそうです。その上で、このように記しています。

「(前略)その木村友祐作『天空の絵描きたち』を読んでみた。そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい……どうなってんの? (中略)『天空の絵描きたち』の書籍化を望む。」(文藝春秋2019年9月号)

前回と変わらず、手厳しいものでした。

翔太が買い物でよく利用したマルエツは昨年閉店となり、いまは建て替え工事中でした。

物語の舞台となった場所を訪ねてみました。ネットで「汐留」「タワーマンション」で検索すると、JR浜松町駅から徒歩3分の場所に、56階建てのマンションがあることがわかりました。浜松町の駅を出たところに大型のマルエツがあるという設定ですが、見当たりません。その代わりに、検索で見つけたマンションの1階部分にマルエツが入居していました。初めて老女と会った日の帰り道、翔太が線路越しに東京タワーを目にした場所も探し当てました。その隣に「文化放送」の文字が刻印されたビルがあるのに気づいた翔太は、「そういえば子どもの頃、実家ではいつも吉田照美のラジオが流れていた。」と思い起こすのでした。古市さんは、ラジオっ子だったのかなと、ふと思いました。

続いて、翔太のアパートの最寄り駅である、京浜急行の新馬場駅に向かいました。品川駅から各駅停車で2駅目です。駅の改札を出ると、そこは第一京浜と山手通りの交差点で、かなりの交通量です。最初にこの場所が登場した場面で、公道カートが第一京浜を横切っていくのを翔太は目にします。

物語には、品川図書館の敷地を通り抜けて、路地を入ったところに、翔太のアパートがあると設定されています。実際に、それらしいエリアはあるものの、「ハイツ荏川」の手前の曲がり角にある「空のペットボトルがたくさん置かれた」家は見つかりませんでした。

翔太がマルエツの買い物に行く際に横切った神社は、目黒川沿いの荏原神社のようです。神社から歩いて1分ほどの品川橋の手前にあったマルエツは、ネット情報では2020年9月に閉店しており、いまは建て替え工事の真っ最中でした。

そのマルエツは、旧東海道沿いにあり、建物はもちろんビル化・近代化されてはいますが、それでも往時の旧道の雰囲気を存分に残していて、魅力的な街のように感じました。物語にそのあたりの情景が書き込まれていないのは、将来に希望が見いだせない翔太に、それだけ精神的な余裕がなかったからかもしれません。

マルエツのあった旧東海道一帯は、いまでも往時の雰囲気を残した魅力的な街です。

Profile

二居隆司

読売新聞に入社以来、新聞、週刊誌、ウェブ、広告の各ジャンルで記事とコラムを書き続けてきた。趣味は城めぐりで、日本城郭協会による日本百名城をすべて訪ねた。

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