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鹿島茂と猫のグリの「フランス舶来もの語り」【石鹸】

フランス文学者であり、その博覧強記ぶりでも知られる鹿島茂さんによるエッセイをお届け。愛猫のグリ(シャルトリュー 9歳・♀)とともに今では私たちの生活にすっかり溶け込んでいる海外ルーツのモノやコトについて語ります(本記事は鹿島茂:著『クロワッサンとベレー帽 ふらんすモノ語り』(中公文庫)から抜粋し作成しています)

これぞフランス文化の香り

私が子供だったころ、お湯でなくとも溶ける固形の洗濯石鹸(せっけん)のことを指してマルセル石鹸と呼んでいたと記憶する。よもや、これが〈マルセーユ石鹸〉のことだとは思わなかったが、Marseille を英語式に発音すると、たしかにマルセルと聞こえる。おそらくアメリカ経由で入ってきたマルセーユ石鹸がマルセル石鹸に化けたのだろう。

それはともかく、マルセーユが15世紀の昔から石鹸の主要産地であったことは事実で、フランスの石鹸の大部分は、いまもこの地の周辺で製造されている。

ではなぜ、マルセーユが石鹸の産地になったかというと、この土地では原料となるオリーヴ・オイルと植物性ソーダがどちらも豊富に入手できたからにほかならない。しかし、いくら豊富でも、長いあいだ採取していれば植物性ソーダは枯渇するし、オリーヴ・オイルも不作の年がある。その結果、マルセーユの石鹸産業は18世紀の末に危機に瀕したが、1791年にルブランが食塩からカセイソーダを、また1823年にシュヴルーユがオレイン油を作りだすことに成功し、原料難を乗り切ることができた。

イラスト◎岸リューリ

しかしながら、マルセーユを始めとするフランスの石鹸産業が、19世紀ばかりか20世紀にまで延命することができたのは、汚れを取り除くという「機能」の面もさることながら、それ以上に、石鹸の「匂い」という感覚的な部分に気を配り、これを「フランス文化の香り」にまで高めたからではないかと思われる。フランス語でサボネット savonnette と呼ばれる香料入り石鹸はこの典型で、私など、パリのホテルに着いて、スミレやラヴェンダー、ベルガモットや白檀(びゃくだん)油などが巧みにブレンドされたこのサボネットの匂いをかぐと、ようやくフランスにやってきたという実感が湧くぐらいである。この分野だけは、香水と同じく現在でもフランスの独擅場(どくせんじょう)のようだ。

ロバート・ウーリーの『オークションこそ我が人生』という本には、膨大なブロンズ像のコレクションを残して死んだアメリカの大富豪夫人の話が出てくるが、屋敷を調べると、何千個という未使用の高級香料石鹸で埋まった「石鹸ルーム」が見つかったという。あるいは、この大富豪夫人は、香料入り石鹸の匂いでフランスに思いを馳せ、晩年の無聊(ぶりょう)をなぐさめていたのかもしれない。

憧れは、匂いを介してやってくる。

【グリの追伸】
郊外の家具&生活雑貨量販店に出掛けて、モンゴルのパオに似たキャットハウスを見つけ、大喜びで買ってきたようです。でも、正直言って、あんまり入りたくないんですよね。しかし、メンツを潰すのもかわいそうだから、入ってやるか。

キャットハウスも“グリ”

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Profile

鹿島茂

かしましげる 1949年横浜に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。2008年より明治大学国際日本学部教授。20年、退任。専門は、19世紀フランスの社会生活と文学。1991年『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞、96年『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞、99年『愛書狂』でゲスナー賞、2000年『職業別パリ案内』で読売文学賞、04年『成功する読書日記』で毎日書評賞を受賞。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。書評アーカイブWEBサイト「ALL REVIEWS」を主宰

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