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Culture

【鹿島茂 『パリのパサージュ』】vol.1 ここはヴェルサイユ宮殿「鏡の間」? ギャルリ・ヴェロ=ドダ

コロナ禍で旅行に行けない今、極上のエッセイで楽しむパリ散歩はいかが?  フランス文学者の鹿島茂さんにはパリに行くたび足を運ぶ場所がある。それはパサージュ。パサージュとは「通り抜け」という意味で、鹿島さんの定義では上部の一部または全部がガラスなどの透明の屋根で覆われていて、そこから空が見える通りのこと。日本のアーケード商店街のような形態ではあるけれど、「パサージュには、バルザックやフローベルの生きた19世紀という『時代』がそのままのかたちで真空パックのように封じ込められて」いて、日本のそれとはまったく違うものだという。 そんな鹿島さんのガイドで9つのパサージュへとご案内。今回は「ギャルリ・ヴェロ=ドダ」へ。 (本記事は鹿島茂:著『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』(中公文庫)から抜粋し作成しています)

有名人から観光客まで、大人気のパサージュ

ギャルリ・ヴェロ=ドダがジャン=ジャック・ルソー通りとブロワ通りの間に開通したのは1826年のこと。その名は親の代まで近所でハム・ソーセージ屋を営んでいたブノワ・ヴェロとドダ某に由来する。

大革命に続く混乱の時代に巧みな投機によって新興成金の仲間入りを果たしたこの二人のブルジョワは1819年にブロワ街とジャン=ジャック・ルソー通りに面する長細い地所を手に入れると、当時大流行していたパサージュを造ろうと計画。さっそく実行に移した。


彼らには確信があった。というのも、ジャン=ジャック・ルソー通りには、郵便馬車の、またブロワ通りには、メサジュリ・カヤール・エ・ラフィット社(後に合併でメサジュリ・ジェネラル・ド・フランス社と改称)の大型乗合馬車の発着場がそれぞれあり、また、ブロワ通りは当時パリ随一の盛り場だったパレ・ロワイヤルがすぐ近くにあったので、地方からパリにやってきた人は必ずや自分たちのパサージュを通るだろうと思ったのである。

彼らは、まず店舗のファサードには思い切って透明ガラスを多く使い、間の壁は鏡で覆い、床には黒と白のタイルを敷き詰め、天井のガラスではない部分にはアレゴリックな天井画を配して、ネオ・クラシック調の豪華でシックな雰囲気が保たれるようにした。

さらに決め手としてガス灯でパサージュ全体をライトアップするようにしたので、消費者はヴェルサイユ宮殿で買い物をしているような錯覚を抱くに至ったのである。

そして、これらの新機軸の仕上げとして彼らが用意したのが、「パサージュよりも高級なパサージュ」という意味での「ギャルリ」という新しい名称だった。ようするに、ヴェルサイユの『鏡の間(ギャルリ・ド・グラース)』みたいなものと言いたかったのである。

ギャルリ・ヴェロ・ドダの内部。壁には鏡がはめ込まれている

有名人も住みたがる人気のアパルトマンに

かくして、ギャルリ・ヴェロ=ドダという名を得てスタートした新しいパサージュは豊かさを追求する時代の好みに合ったのか大変な賑わいとなった。1837年に出たティオレの『新集・インテリアとエクステリアの装飾と嵌め木細工』では、「装飾にかんしては豪華さとユニークさで第一等」と評価されていることからわかるように、オーナーたちの意図は正しく理解されたのである

テナントにも、フィリポンの絵入り新聞「カリカチュール」や「シャリヴァリ」とタイアップして石版画を売るオベール商会のような流行の業態が入居し(38番地。ブロワ通りとの角)、ドーミエやグランヴィルなどの版画を売り出したので、商業施設としての格も上がり、ギャルリ・ヴェロ=ドダの未来はバラ色に見えた。有名人もこのパサージュに住みたがった。女優のラシェルは38番地の2階に1838年から42年まで居を構えていた。アルフレッド・ド・ミュッセは、ラシェルとパレ・ロワイヤルのアーケードで出会った後、一夜を彼女のこのアパルトマンで過ごした思い出を『マドモワゼル・ラシェルの家での夜食』という短編に残している。

だが、1840年代にグラン・ブールヴァールに天井にガラスと鉄をふんだんに使った新しいタイプのパサージュが建設されるようになると、ギャルリ・ヴェロ=ドダはあまりに薄暗く、換気も悪いと非難されるようになる。天井の骨組みが木を使っていた(後に鉄に換える)ので、開口部を多く取れなかったことが災いしたのだ。

しかしギャルリ・ヴェロ=ドダにとって致命的だったのは、頼みの綱だったパレ・ロワイヤルとメサジュリ・ジェネラル社が世紀半ばに二つとも斜陽になってしまったことだろう。

すなわち、まずパレ・ロワイヤルが賭博禁止令と娼婦追放政策で閑古鳥の鳴くありさまとなり、集客力が著しく衰えたことが大きい。次いで、鉄道の開通により、長距離乗合馬車が完全に過去のものとなって、メサジュリ・ジェネラル社そのものが1880年頃に廃業したため、人の流れが完全に消えてしまったのである。

アパルトマンへと至る階段

忽然と姿を消した店主

その結果、盛り場でなければやっていけない業種のテナントはすべて撤退し、あとには、名刺屋とか印刷屋とか骨董屋とか古本屋といった、ふりの客をあまり必要としない不景気な業種だけが残された。

そして、この状態がすでに150年以上も続いているのである。

これだけでも奇跡に近いが、さらに例外的なことは、パサージュ自体の装飾が、ダムで水没した都市か、あるいは火山の噴火で灰に埋もれたポンペイのように、ほとんど手つかずで残っていることだろう。150年間、だれも改装を施そうとする人間が現れなかったのである。

言い換えると、ギャルリ・ヴェロ=ドダは衰退が加速して現在に至ったのではなく、150年前のさびれ具合がまるでパラフィンで凝固されたかのようにそのまま「保存」されているパサージュなのである。

1965年にパリ市歴史建造物リストの追加目録に加えられ、破壊される危機は去ったが、それでも、ギャルリ・ヴィヴィエンヌやギャルリ・コルベールのように完全に修復され、別の建造物になってしまう可能性もある。見学するならいまのうちである。

ところで、「ロベール・カピア」の斜め前の13番地にある古書店「ゴーガン」の主人ポール・ゴーガン氏はロベール・カピア氏と非常に親しい友人で、カピア氏が健在だったころは、いつも彼の店に入り浸って、自分の店を留守にしていた。私もこの頃には、何度か氏の姿をカピア氏の店で見かけたものである

ところが、まことに不思議なことに、カピア氏が廃業して以来、ポール・ゴーガン氏は忽然と姿を消した。いつ行っても、店内に灯りは点っているのだが、ドアには鍵が掛けられたままで、だれもいる気配がない。店主は、移転したカピア氏のところにしゃべりに出掛けているのか? いや、そもそも実在しているのだろうか? ミステリーのネタにでもなりそうな話である。

photos: 鹿島直(NOEMA Inc. JAPAN)

Profile

鹿島茂

1949年横浜に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。2008年より明治大学国際日本学部教授。20年、退任。専門は、19世紀フランスの社会生活と文学。1991年『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞、96年『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞、99年『愛書狂』でゲスナー賞、2000年『職業別パリ案内』で読売文学賞、04年『成功する読書日記』で毎日書評賞を受賞。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。書評アーカイブWEBサイト「ALL REVIEWS」を主宰

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