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【鹿島茂 『パリのパサージュ』】vol.3 地霊のしわざ?人の波が途絶えたギャルリ・コルベール

コロナ禍で旅行に行けない今、極上のエッセイで楽しむパリ散歩はいかが?  フランス文学者の鹿島茂さんにはパリに行くたび足を運ぶ場所がある。それはパサージュ。「パサージュには、バルザックやフローベルの生きた19世紀という『時代』がそのままのかたちで真空パックのように封じ込められている」という鹿島さんのガイドで9つのパサージュへとご案内。今回は「ギャルリ・コルベール」へ。 (本記事は鹿島茂:著『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』(中公文庫)から抜粋し作成しています)

その美しさは「芸術作品」と称賛された


ギャルリ・ヴィヴィエンヌに並行する形でプチ=シャン街からヴィヴィエンヌ通りに抜けているギャルリ・コルベールは、前者の成功に刺激され、1826年に建設された美しいパサージュである。「ギャルリ・コルベール」という名称はこの地所に建っていた建物がルイ十四世の財務長官だったコルベールの所有だったことに由来する。

パリで最も美しいパサージュと称賛されていたギャルリ・ヴィヴィエンヌのライバルとなるべく建設された関係で、ギャルリ・コルベールは建築学的には見るべきところが多い。特に、二つの歩廊を直角に接続するロトンドはパサージュが誕生したときからあらゆるジャーナリズムで称賛され、「モニトゥール・ユニヴェルセル」紙では、それ自体が「一つの芸術作品」とまで称えられた。

1831年に刊行された大がかりなパリ風俗観察集『パリ あるいは百と一の書』(ラドヴァカ書店)の「パサージュ」の項でアンドレ・ケルメルは次のように述べている

「私は、このコンポジット様式の建築のエレガントな均整の前で恍惚となった。その物腰の威厳にうっとりとした。まばゆいと同時に優しい光の放たれるクリスタル円球の規則的な連なりを素晴らしいと感じた。(中略)なかでも、読者諸氏には、このパサージュの美しいロトンドに一瞥を投げかけてみることをお勧めしたい。ロトンドを照らす灯柱は、サバンナの真ん中にあるココナツの樹を思わせる。ロトンドの周りにはランジェリー屋、香水屋、アクセサリー屋などの売り子がひしめき、さかんに客の呼び込みをしている」(拙訳。以下訳者名表記のないものは著者による訳文である)

ここで、ケルメルが「ココナツの樹」と呼んでいるものは、ココナツの樹を模したブロンズの彫刻で、それが柱頭の上に実ったココナツ(クリスタル円球のガス灯)を支えるようになっていた。

高級なブティックがテナントとして入ったロトンドのファサードをかざる壁面装飾はこの時代に一世を風靡したポンペイ様式で、赤や青の大理石、白大理石のコルニッシュや薄浮き彫りなど、ローマ時代の美学を再現していた。

当時を忠実に復元した現在のロトンド


では、このように誰からも絶賛されたパサージュに客が押し寄せたかといえば、そうはいかないところに商売の難しさがある。あまりに整い過ぎた美人に男が寄ってこないのに似て、この洗練されたパサージュは、宿命のライバルたるギャルリ・ヴィヴィエンヌに比べて、いま一つ人気が出なかったのである。

消費者というのは、一度でも自分を跳ね返すような冷たさを盛り場に感じてしまうと、二度とそこに足を踏み入れようとはしないのだ。猥雑さというのも、消費者を惹きつける重要な要因なのである。

この人気のなさは、1826 年の開業当初から指摘されており1828年刊のパリガイドにも、「このパサージュは、広々としていて、採光もよく、建築もたいそうエレガントではあるが、隣のギャルリ・ヴィヴィエンヌほどの人気は集めていない」と書かれている。

ギャルリ・コルベールの不人気は、立地条件から考えても不思議の種だった。というのも、ギャルリ・コルベールのプチ=シャン通り側の入口は、パレ・ロワイヤルから北へ抜ける小さな通り抜け道である「パサージュ・デ・パヴィヨン」の続きになっていたから、パレ・ロワイヤルに押し寄せた人の波は自然とギャルリ・コルベールに流れ込むはずだったからである。

ところが、実際には、そうはならなかった。ギャルリ・コルベールに流れ込む予定の人の波は、ある目論見によって動線がねじ曲げられた結果、ギャルリ・ヴィヴィエンヌに向かったのである。その動線をねじ曲げたのは、ほかならぬギャルリ・ヴィヴィエンヌの経営者だった。彼らは、「パサージュ・デ・パヴィヨン」が売りに出されるのを知ると、これを買い取り、その出口をギャルリ・コルベールの方にではなく、自分たちのパサージュの方へと回させてしまったのである。

これにはギャルリ・コルベールの側も憤慨し、「パサージュ・デ・パヴィヨン」の新しい出口に通じる入口を設けるために、一件の店舗を犠牲にして、支脈たる「パサージュ・コルベール」を開通させた。

しかし、こんな対抗策もしょせん、蟷螂(とうろう)の斧(おの)にすぎなかった。不人気は覆うべくもなく、なにか、強烈な方策を考え出さなければ、挽回は不可能に見えた。

パサージュの覇権争いの結末

そこで、ギャルリ・コルベールの経営者は、起死回生の策として、1832年に、支脈の「パサージュ・コルベール」の角に、ジェオラマという名の新型の見世物を置くことにした。ジェオラマというものが実際にどんな装置であったか実態は不明だが、その名から想像するに、ある種の光学装置を使って、地球(ジェオ)の神秘をヴァーチャルに体験させるアミューズメントだったのではないか。同じ年に作られたギャルリ・ヴィヴィエンヌのコスモラマという見世物が、ガッツァヴァ神父の考案になるヴァーチャル旅行装置であったことからもある程度は想像がつく。

このジェオラマとコスモラマの戦いは、同時代のパリ観察者を面白がらせたようで、バルザックの『ペール・ゴリオ』(1834年刊)には、次のような一節がある。

「この頃にも、ディオラマという、パノラマよりも視覚的錯覚を徹底的に追求した見世物が発明されたばかりだったが、パリのいくつかの画塾では、語尾になんでも《ラマ》をつけてしゃべるのがはやっていた。ヴォケール館でも、通いの若い画学生が、この言葉遊びをもちこんでいたのだった」(拙訳 藤原書店)

『ペール・ゴリオ』の時代設定は1819年、ダゲールによるディオラマ開業が1822年だから、バルザックの記述は明らかなアナクロニズムだが、むしろ、ここは、バルザックが執筆時の流行を巧みに取り入れてユーモアを効かせたものと考えたほうがいい。ジェオラマとコスモラマの戦いは、それだけ盛り場好きの話題をさらっていたのである。

だが、こうした新機軸のアミューズメントに人気が集まるのが一時のことであるのは世の習い。ブームが去ると、ジェオラマは無用の長物となり、やがて、撤去されて、その跡には、家具付きホテルが二階に付属するカフェが入ったが、どうやら、このカフェと家具付きホテルは、パレ・ロワイヤルに出没する娼婦たちのたまり場となったようで、それにともなって、ギャルリ・コルベールの格もどんどん下がっていった。

しかし、それでも、娼婦たちが出没していた頃には、それなりの活気もあったが、七月王政で王座についたルイ・フィリップによって、パレ・ロワイヤルから娼婦を追放する命令が出されると、ただでさえ少なかったギャルリ・コルベールへと向かう人の波はパッタリと途絶えてしまうのである。

そして、それは、ライバルのギャルリ・ヴィヴィエンヌにとっても同じだった。二つのパサージュは、パレ・ロワイヤルの衰退と軌を一にして寂れていくのである。パリの盛り場の覇権はすでに、パレ・ロワイヤルからグラン・ブールヴァールへと移っていたのである。

かくて、1910年には、ヴィヴィエンヌ通りに抜ける歩廊は、音楽出版社のウージェルと、安レストランチェーン「ブイヨン・デュヴァル」に塞がれて、閉鎖されることになる。ガラス天井の美しさを誇ったロトンドもこのころに取り壊され、残るはプチ=シャン通り側の歩廊だけになった。ほとんどの店舗は撤退したが、例の「パサージュ・コルベール」の家具付きホテルだけは細々と営業を続けていた。ロトンドはなんとガレージとして使われていた。

しかし、ついに、ギャルリ・コルベールに最後の日がやってくる。1975年、敷地が隣接する国立図書館に買い取られ、そこに分館が建設されることが決まったのだ。修復するには傷みが激しく、全面的な解体も検討されたが、最終的に、ギャルリ・コルベールを最初の状態に復元しようという建築家ルイ・ブランシェの設計図が採用され、10年の歳月をかけてレプリカが造られた。

こうして、1985年にギャルリ・コルベールは国立図書館分館として再生したが、その分、人通りは少なく、閑散とした雰囲気があたりを支配している。「冷たい美人」という印象はギャルリ・コルべールの時代からそのまま受け継がれてしまったようだ。やはり、地霊(ゲニウス・ロキ)というのは存在しているのである。

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photos: 鹿島直(NOEMA Inc. JAPAN)

Profile

鹿島茂

1949年横浜に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。2008年より明治大学国際日本学部教授。20年、退任。専門は、19世紀フランスの社会生活と文学。1991年『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞、96年『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞、99年『愛書狂』でゲスナー賞、2000年『職業別パリ案内』で読売文学賞、04年『成功する読書日記』で毎日書評賞を受賞。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。書評アーカイブWEBサイト「「ALL REVIEWS」」を主宰

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