Culture
【鹿島茂 パリのパサージュvol.4】素っ気ないのに人が集まるパサージュ・ショワズール
2021.7.15
コロナ禍で旅行に行けない今、極上のエッセイで楽しむパリ散歩はいかが? フランス文学者の鹿島茂さんにはパリに行くたび足を運ぶ場所がある。それはパサージュ。「パサージュには、バルザックやフローベルの生きた19世紀という『時代』がそのままのかたちで真空パックのように封じ込められている」という鹿島さんのガイドで9つのパサージュへとご案内。今回は「パサージュ・ショワズール」へ。 (本記事は鹿島茂:著『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』(中公文庫)から抜粋し作成しています)
夢もない。飾り気もない。
日本のアーケード商店街のイメージに一番近いパサージュ。すなわち、活気と人出はあるが、生活中心で、なんの夢も飾り気もない散文的なパサージュである。
パサージュ・ショワズール(入口にはパサージュ・ド・ショワズールと記してある)が開通したのは王政復古下の1827年のこと。ルイ14世の外務大臣だったリオンヌ侯爵の邸宅ほか4軒の建物を地上げし、プロジェクトを推進したのは、当時、日の出の勢いだったマレ銀行である。
その狙いは、一目瞭然だった。盛り場の覇者であるパレ・ロワイヤルと、それに挑戦する新しい盛り場グラン・ブールヴァールを結ぶパサージュを造れば、歩行者は、馬車の運行が激しく、歩道も狭いリシュリュー通りを避けて、この通り抜けを利用するだろうと踏んだのだ
パサージュの建設は1826年に始まったが、その途中で思わぬ要因が加わり、計画は変更を余儀なくされる。隣接した敷地にオペラ・コミック王立劇場が建設されることになったのである。マレ銀行はこの劇場建設を歓迎し、自らも出資して周辺を整備し、劇場の玄関ホールとパサージュ・ショワズールを結ぶと同時に、劇場に通じる支脈のパサージュも通して、劇場にくる客を呼び込もうと図った。
ところが、肝心の劇場の方が経営が思わしくなく、オペラ・コミックが1832年に離れた後、ノティック座、イタリアン座と持ち主を変えたあげく、1878年には大火を出して閉鎖の憂き目を見た。建物はエスコント銀行に買い取られ、1892年からはフランス銀行の所有となっている。
パリのパサージュを最初に本格的に研究したベルトラン・ルモワーヌの『ガラス屋根のパサージュ(パサージュ・クヴェール)』(デレガシオン・ア・ラクション・アルティスティック・ド・ラ・ヴィル・ド・パリ)によると、このパサージュは、建設当初から、同時代人の評価が低かったらしい。というのも、壁はただ漆喰が塗ってあるだけ、天井のガラスはこれまた至って単純で装飾性がなく、ほとんど工場のようなのだ。
この印象は、現在でも変わらない。ようするに、パサージュ・ショワズールは、出来たときから散文的なパサージュだったのである。
ただ、散文的だからといって人通りが少ないわけではない。それはギャルリ・コルベールが美しいからといって人気が出たわけではないのと同じである。(※前回「地霊のしわざ?人の波が途絶えたギャルリ・コルベール」はこちら)むしろ、散文的であるがゆえに、パサージュ・ショワズールは、昔もいまも人通りの多いパサージュであり続けている。
とりわけ、七月王政から第二帝政にかけて、パサージュ・ショワズールは大いに賑わった。というのも、オペラ・コミック座(イタリアン劇場)のほかに、このパサージュはもう一つの劇場への出入口を有していたからだ。その劇場は、子供向けの演目を中心とするコント氏の子供劇場で、パサージュ・デ・パノラマから1828年にモンシニ通りに移転して以来、パサージュ・ショワズールに裏木戸を開いていたのである。この劇場は、1855年にジャック・オフェンバックによって買い取られ、以後、ブッフ・パリジャン座として今日も親しまれている。私も、10年程前、ここでマルセル・エーメ原作のミュージカル『壁抜け男』を見て感激したことがある。
ブッフ・パリジャン座の裏口
詩人や文学者をひきつけた店
しかし、散文的で、ただの通り抜けとしてしか使われていない割には、パサージュ・ショワズールは多くの文学作品に引用されている。
それというのも、このパサージュの23番地には、1865年からアルフォンス・ルメール書店が入居し、多くのパルナス派(高踏派)の詩人や文学者が出入りしたからである。すなわち、シュリ・プリュドム、フランソワ・コペー、バルベイ・ドルヴィイー、ルコント・ド・リール、ホセ・マリア・エレディア、それにヴェルレーヌなどである。ヴェルレーヌは、ランボーに拳銃を発射して収監された牢獄の中で、パサージュ・ショワズールを回想して次のような詩を残している。
「過去の匂いを漂わせた
あのパサージュ・ショワズールは、
いまどこにあるのだろう? 1870年の冬、
みんな、そこで楽しんでいた。
私は共和主義者で、ルコント・ド・リールも
同じだった。親しきルメールは右派の執政官で、
それぞれが自分の信条を詩句に歌っていた。
ああ、過ぎ去りし日々よ!」
ルメール書店は1965年に廃業するまで、この場所から多くの名作を出版しつづけた。
しかし、パサージュ・ショワズールが人々の記憶に強く残るに至ったのは、なんといっても、64番地に骨董店を構えていたデトゥーシュ一家のおかげである。なぜなら、このデトゥーシュ一家の一人息子だったルイ・フェルディナンは、やがて「セリーヌ」というペンネームを使って『夜の果ての旅』『なしくずしの死』という小説を書き、「パサージュ・デ・ベレジナ」の名称のもと、このパサージュを克明に描いたからである。
「リブリア」書店と店主
私が現在、このパサージュ・ショワズールで最も頻繁に利用するのは、グラフィック中心のゾッキ本屋「リブリア」で、ここにいくとかなりの割引価格でゾッキに回された本が手に入る。とくに、写真関係の本は、FNACなどの新刊本屋では手に入らなくなったものでもちゃんと見つかるのでありがたい。頑張って欲しい本屋の一つである。
photos: 鹿島直(NOEMA Inc. JAPAN)
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