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【what to do】杉浦非水、日宣美、そして和田誠……。「美術」と「デザイン」のあわいを東京のミュージアムで辿る

展示会ポスターの右端に写っているのが杉浦非水。明治45年(1912年)のこと

“what to do”は知的好奇心あふれる『マリ・クレール』フォロワーのためのインヴィテーション。今回は、東京で開かれているグラフィックデザインを中心とした企画展を観て巡る。近代以降、ポスターや写真といった複製芸術が影響力を増していく中、美術とデザインの境界線とは? そもそも、そのような結界などあったのか。この秋、ミュージアムで出会った作品を通して美術とデザインの微妙な関係の変容を辿った。

杉浦非水(1876~1965年)は、人気の作家だ。日本のモダンデザインのパイオニアとされ、数年おきに充実した回顧展が開かれる。記憶しているだけでも「杉浦非水展 都市生活のデザイナー」(東京国立近代美術館フィルムセンター、2000年)、「〈写生〉のイマジネーション 杉浦非水の眼と手」(宇都宮美術館、2009年)、「杉浦非水・翠子展-同情から生まれた絵画の歌」(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館、2015年)、そして「イメージコレクター・杉浦非水展」(東京国立近代美術館、2019年)を観ている。有名な上野-浅草間の地下鉄の開通を告げるモダンなポスター(1927年)を展示する企画展となると、もう数知れない。

図案家と日本画家の間で揺れ動いた杉浦

「東洋唯一の地下鉄道 上野浅草間開通」 昭和2年(1927年) 愛媛県美術館

個人的には、杉浦の家が自宅の近くにあったことを白根記念の展示で知って親しみが沸いた。以前は岡田三郎助のアトリエも近くにあって、「渋谷の絵かき村」として有名な土地だったらしい。そのアトリエの記憶もぼんやりとあって、岡田の郷里、佐賀県を2019年に訪ねた際に県立美術館の敷地に移築されているのを偶然見て驚いたことがある。そういえば、2人とも三越のポスターを制作していた。実際、交流もあったようだ。

さて、「杉浦非水 時代をひらくデザイン」展が開かれているたばこと塩の博物館も杉浦とは縁のある施設だ。杉浦が「響」や「光」といったたばこのパッケージデザインも手がけているからだ。杉浦展を開くのも1994年に続いて2度目。杉浦の故郷の松山にある愛媛県美術館所蔵のコレクションを中心に約300点を通して、東京美術学校時代の作品から晩年の創作まで彼の足跡を丁寧に紹介している。

黒田清輝に勧められてデザインの道へ

今回面白いのが、画家と図案家の間で振幅する杉浦を見られること。東京美術学校で円山派の川端玉章に師事して日本画を学んだ杉浦は、在学中に黒田清輝が日本に持ち帰ったアール・ヌーヴォー様式のポスターの美しさに魅せられ、図案家の道へ進んだ。「デザイン」という言葉が一般的ではなかった明治40年代から三越のポスターやPR誌の表紙などの意匠を手がける一方、日本画の探究も忘れなかった。美術学校時代の模本やスケッチは今回、初めてじっくりと観た。孔雀を精密に描いた日本画も素晴らしい。図案家としてすでに名を成していた1937年に開いた自身の展覧会の招待状には、図案家の仕事を「商業美術」として「純正美術」に対置し、「(純正美術としての)日本画の手法の融合構成を試みたい」と書いている。

実際、大正時代に入ると、非水はクライアントの制約を受けない『非水百花譜』のような芸術版画と植物図譜の中間に位置する作家性の強い作品を発表。晩年は日本画に回帰し、89歳の生涯を閉じた1965年に描いた絹本着色の「雨」という日本画が、会場の最後に展示されているのも印象的だ。図案家か日本画家か、その間で生涯揺れ動いた杉浦の心情に作品を通して触れてみたい。

東京での展示は14日までだが、三重県立美術館(11月23日~2022年1月30日)と福岡県立美術館(4月15日~6月12日)へ巡回する。

『非水百花譜』(昭和版)〈やまぶき 山吹〉昭和4〜9年(1929〜34年) 愛媛県美術館

「純粋」か「宣伝」か。アーティストにとっての大問題

杉浦が「純正美術」と「商業美術」を区別したように、戦後間もない1950~60年代も「純粋美術」に対して「宣伝美術」が対置されることがあった。そんな中で境界線を軽々と越境して創作活動を行うアーティストもいた。そうした時代の造形と人々の交流に焦点を当てたのが東京国立近代美術館の所蔵作品展「MOMATコレクション」(~2022年2月13日)に設けられた小特集「純粋美術と宣伝美術」だ。

50~60年代、芸術的価値の追求、鑑賞を目的とした美術を「純粋美術」と呼ぶことがあった。では「不純」な美術もあったのか? そこまで言わないが、純粋美術の対になるジャンルとして想定したのは「応用美術」だろう。インテリアや工業製品、そしてポスターのデザインなど、美術的表現に加えて生活や宣伝といった機能や実用性を備えたものを指す。その母集団の中に「宣伝美術」も含まれる。主にイベントなどのポスターやチラシをデザインすることで、今で言うところのグラフィックデザイナーの仕事。杉浦の世代がその道を切り開いた。それにしても、多様性を重んじる現在から振り返ると、「純粋」という言葉が何と排他的に響くことか。

ともかく、「純粋ではない」と思い、思われることもあった宣伝美術に携わる人たちの職能地位の向上と支援を目的に1951年、日本宣伝美術会(日宣美)が設立された。日本初のグラフィックデザイナーの職能団体。その中には、早川良雄や山城隆一のように美術同人として活動している人も所属した。実際、山城が52年に発表した「日本宣伝美術会展」のポスターは、大きくデフォルメされた顔にシュルレアリズムの影響が指摘されている。

山城隆一《日本宣伝美術会展》 1952 年

芸術家がポスターをデザインし、図案家がアートを創作

北代省三のように実験工房のメンバーがポスターを手がけるケースもあった。1951年に芸術家たちによって結成された実験工房は芸術活動だけでなく、日本自転車工業会の海外PR用映像を制作するなど、企業との協業にも参加したことでも知られる。

会場では、北代が53年に発表した演奏会のポスターとアルミニウムや鉄などを使った大きなモビールのオブジェを併置。菅井汲や小磯良平といった画家の印象が強い作家によるポスターも展示していて面白い。また、当時、「ビオモルフィック」と呼ばれ、抽象表現によく用いられた曲線のフォルムが家具の造形に与えた影響もイームズの家具などを通して紹介している。

手前にチャールズ&レイ・イームズの《合板ラウンジチェア》(1946 年)©Courtesy of EAMES OFFICE, LLC。左奥が、北代省三がデザインを手がけた《ギーゼキング演奏会》(主催は読売新聞社!)ポスターで、右奥が彼の制作した《モビール・オブジェ(回転する面による構成)》。いずれも 1953年の作品
「ビオモルフィック」な形態なら、展示されているイームズのラウンジチェアよりこちらの方が相応しくはないか。第2次世界大戦中、負傷した兵士の脚を固定するために作られた。イームズ夫妻が1943年に米軍の依頼を受けてデザイン。「レッグスプリント」と呼ばれ、大昔買って自宅の居間に置いてある。場所塞ぎだったが、初めて仕事の役に立ちそう(撮影・高橋直彦)

東京国立近代美術館では、企画展として柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」(~2022年2月13日)も開かれており、合わせて観ることで近代の造形の多様性を感じることができる。民藝運動とは、アノニマスな量産性と民衆の手仕事に美点を見出した点で、作家性を重んじた「純粋芸術」に対するアンチテーゼでもあったはずだ。

誰もが知っている和田の知らない世界を知る

イラストレーターとして広く知られた和田誠(1936~2019年)の世代になると、「美術」と「デザイン」の境界はあまり意味をなさなくなったように感じる。東京オペラシティ アートギャラリーで開かれている「和田誠展」(~12月19日)を観てそう思った。装丁家や映画監督、作曲家、そしてアートディレクターなどとしても活躍した和田の仕事の全貌に計約3000点の作品や資料を通して迫る初の企画で、A5判の図録の厚さは約3.5センチにもなる。それにしても何と潔いタイトル! 本展企画担当者の意気込みと自信が伝わってくる。

似顔絵も得意とした和田展のフライヤー。多岐にわたる活動の全貌を紹介する初の試みだという

晩年の杉浦からも教えを受けたイラストレーター

これまで触れてきた杉浦非水、東京国立近代美術館、そして日宣美、それぞれに和田は接点を持っている。1955年に入学した多摩美術大学図案科(現・グラフィックデザイン学科)では、当時、同大理事長兼図案科主任教授だった杉浦に習っているし、大学3年だった57年に発表した「夜のマルグリット」というクロード・オータン・ララの映画を題材にした手描きのポスターが日宣美賞を受賞。同賞はプロへの登竜門とされ、和田も「(受賞が)ぼくの進路に大いに影響しています」と述懐している。そもそも「ポスターを作る人」になりたいと思ったきっかけが、高校2年の時に東近美で観た「世界のポスター展」だったという。その意味では近代のグラフィックデザインの流れを貪欲に吸収して十分に消化し、旺盛な創作に結びつけたのが和田という存在だったとも言える。

「夜のマルグリット」ポスター 1957年 多摩美術大学アートアーカイヴセンター蔵
「快盗ルビイ」映画ポスター 1988年

1960年代には、前衛的な芸術文化を発信する場として中心的な役割を担った草月アートセンターのポスターも手がけ、先鋭的なアーティストたちとも交流したが、生年が同じ横尾忠則のように「画家宣言」をすることもなく、生涯イラストレーターとしての仕事が核にあって、そこから様々な仕事が派生していった。展示では、その膨大な仕事量を高さ6メートルの大空間を有効に活用して見せている。中でも和田が40年以上担当した『週刊文春』の表紙約2000号分をまとめて見せる展示は圧巻だ。その物量から和田の偉大さが伝わってくる。会場には20~30歳代の人も多く、休日は入場待ちの行列ができるほど。1960年代の熱量の高い作品を、当時生まれていなかった若者たちが一心に見つめている姿が印象的だ。

『週刊文春』の表紙が約2000号分並ぶと壮観。強大な展示が膨大な仕事量を物語る 撮影:清水奈緒

合わせて、川越市立美術館で開かれている「没後70年 吉田博展」(~11月28日)や、SOMPO美術館で開催中の「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」展(~12月26日)といった近代版画家の回顧展も見逃せない。2人が描いた日本の風景は海外向けの観光ポスターなどにも使われ、別の意味で「美術」と「デザイン」の境界線を往還した。この秋は、日本で展開されたグラフィックデザインの多彩な魅力をまとめて満喫できる貴重な機会になりそうだ。

Profile

高橋直彦

『マリ・クレール』副編集長。ポスター好きで、企画展で買っては額装してもらうが、肝心の飾るスペースが自宅にはほとんどない。何とも情けない話だが、性懲りもなく買ってしまう。

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