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【鹿島茂・パリのパサージュ・5】宮廷御用達 老舗印刷店「ステルヌ」で招待状を作りたい!

コロナ禍で旅行に行けない今、極上のエッセイで楽しむパリ散歩はいかが?  フランス文学者の鹿島茂さんにはパリに行くたび足を運ぶ場所がある。それはパサージュ。「パサージュには、バルザックやフローベルの生きた19世紀という『時代』がそのままのかたちで真空パックのように封じ込められている」という鹿島さんのガイドで9つのパサージュへとご案内。今回は「パサージュ・デ・パノラマ」へ。 (本記事は鹿島茂:著『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』(中公文庫)から抜粋し作成しています)

平和な時代の訪れを象徴していた

パサージュ・デ・パノラマはパリに現存するパサージュの中でも最も古いものに属すると同時に、かつてはパサージュの代名詞となったほど、繁栄を謳歌したことのある老舗である。

建設が始まったのは1799年。名前は、モンマルトル大通り側の入口を挟むようにして置かれていた二つのパノラマに由来する。

当時、パリには、フランス革命後の大混乱に乗じて一山当てようと目論むアヴァンチュリエ(山師)たちが群がっていたが、その中に、ウィリアム・セイヤーとロバート・フルトンという二人のアメリカ人がいた。

セイヤーは、1798年のトゥーロン軍港の攻防戦で、フランス軍に捕獲されて競売に付されたイギリス艦艇の中に自分の所有船が混じっていたことに抗議し、フランス政府に保証を求める目的でパリにやってきたが、保証金として交付されたのが、国有地としか交換できないアッシニャ国債だったため、とりあえず、ブールヴァール・モンマルトルで売りに出されていた亡命貴族モンモランシー=リュクサンブール公爵の邸宅と土地を買い取ることにした。

いっぽう、ロバート・フルトンはアメリカでミニアチュアの画家として名を成した後、1791年にロンドンに渡って歴史画家としての経験を積んだが、フルトンはどうやら画家としてよりも発明家としての才能に恵まれていたらしく、蒸気船のほかに、潜水艦と魚雷という新兵器も発明していた。ところが、潜水艦と魚雷はイギリス軍に売り込んでも相手にしてもらえないため、その敵であるフランス共和国にアイディアを買い取ってもらおうとパリにやってきたのだ。1799年のことである。

ところが、潜水艦と魚雷の売り込みが功を奏さないので、資金繰りが苦しくなったフルトンは、トランクの底に詰め込んでいたもう一つのアイディアの売却で、急場をしのぐことにした。そのアイディアとは、スコットランド人の画家ロバート(ジョゼフ?)・バーカーが発明したパノラマで、フルトンは彼から、その特許輸出許可(十年期限)を譲り受けていたのである。

パノラマの買い手はすぐに現れた。モンモランシー=リュクサンブール公爵の邸宅跡地の使い方を検討していたセイヤーである。ブールヴァール・デ・ジタリアンが盛り場の仲間入りをした以上、その隣のブールヴァール・モンマルトルにパノラマを建てれば人気沸騰は間違いなしとにらんだのである。セイヤーは、モンモランシー=リュクサンブール公爵宅跡の整地が済むまでのあいだ、キュピュシーヌ大通りにあるカプチン会修道院跡に模擬的なパノラマを建てて様子を見た後、1799年の末からブールヴァール・モンマルトルに本格的なパノラマを二つ続けて建築することにした。

このとき、セイヤーの頭に、もう一つのアイディアがひらめいた。双子のパノラマの間に、折から流行の兆しの見え始めていたガラス屋根のパサージュを通し、サン・マルク通りからの客も呼び込もうと考えたのである。アイディアはただちに実行に移され、パサージュはパノラマとほぼ同時に完成した。1800年の初頭のことである。

長い社会的混乱がナポレオン・ボナパルトの第一執政就任で終止符が打たれ、平和な時代が到来したことを直感した民衆たちは、アミューズメントとショッピングが合体したこの複合施設に群れをなして押し寄せた。

1807年にはモンマルトル大通りの右隣にヴァリエテ座がパレ・ロワイヤルから移転してきて開場し、パリでも有数の人気劇場となったが、このヴァリエテ座の人気も人出を加速した。

さらに、1815年のワーテルローの戦いでナポレオン戦争が終わり、王政復古の平和な世の中になると、人々は、「パンとサーカス」を求めて、パサージュ・デ・パノラマに殺到した。その繁盛ぶりは当時のあらゆる風俗観察に記録されている。たとえば、王政復古期の1825年に出版されたモンティニーの『パリの田舎人』にはこうある。

名店カフェ・ヴェロンがあった場所にはステーキ・チェーンのヴィクトリア・ステーションが入っている

「機を見るに敏な投機家たちが開発したあらゆるパサージュの中で、パサージュ・デ・パノラマほど人気を集めているところはない。(中略)
ひとつ、このパサージュを訪れておおいに楽しむとしよう
まず、素晴らしいバザールにモンマルトル大通りから入って、左側から見ていくと、大通りとの角にあるのがカフェ・ヴェロン。その装飾はどれも趣味の良さで輝いている(これが特徴なのでしっかりと観察しておくこと)。客はかならずやこの美しいカフェから出ていくことになるだろう。(中略)
そのすぐ隣に控えているのは、クールランド公爵夫人のお菓子屋である。そこには、ありとあらゆる種類の甘いお菓子が並べられている。(中略)
次は、ブーツ屋と手袋屋の前を通りすぎ、シュスの店の前で立ち止まることとしよう。ここは、とびきり上等の文房具屋である」

こんな調子で、1825年のパサージュ・デ・パノラマの詳細ガイドは続いていく。いくつか挙げておけば、マダム・ラポストールの麦藁帽子店、高級菓子店のミルロ、ケーキ店のノエル、サロン・ド・テのマルキなどである。

とくに、モンティニーが言及している文房具屋シュスはたいへん有名で、文房具のほかに、骨董やら版画やら人形など、「自分の商売と関係ないものならなんでも売る」とアレクサンドル・デュマをして言わしめたほどの万(よろず)屋だった。デュマはこの店で六百フランで買ったドラクロワの『狂人の檻のタッソー』を1万5000フランで転売したと『回想録』の中で自慢している。

このほか、初期のパサージュ・デ・パノラマの売り物の一つに、コント氏が1818年に作った子供劇場というのがある。子供劇場では、モルモットを使って演技をさせるサヴォワの曲芸師などが出演していたようだ。先に引用したモンティニーの『パリの田舎人』には、こんな紹介がなされている。

「かくもうるさく遊びまわっているこのモルモットたちはなんなのだ。静かに! 彼らこそ、この劇場の役者たちなのだ。気高き父親とは、ケーキに食らいついているモルモットであり、その小さな娘がコケットな主演女優なのである」

パサージュ・デ・パノラマのもう一つの売り物となったのが、イギリス人のウィンザーが1816年にロンドンからもたらしたガス灯である。ウィンザーは、パサージュ・デ・パノラマの一角に試験的にガス灯を設置してPRにつとめたが、その甲斐あって、ガス灯はパリ市当局に徐々に採用され、街角を明るい照明で照らすようになる。

パサージュ・デ・パノラマは、第三共和政下にデパートが出現し、パサージュ人気に陰りが見え始めた後も、グラン・ブールヴァールに位置するというロケーションの良さでかろうじて生き残ったが、後述のパサージュ・ジュフロワに比べると、人出はだいぶ少なくなっていた。グラン・ブールヴァールでも、南側よりも北側の方に人気が集まっていたためである。

とはいえ、第一次大戦までは、盛り場の覇権があいかわらずグラン・ブールヴァールにあったので、パサージュ・デ・パノラマもパリを訪れた観光客が必ず訪れる人気スポットの一つであり続けた。1908年に、後にカルナヴァレ美術館の初代館長となるパリ史の第一人者ジョルジュ・カンは、「フィガロ」紙に寄稿した記事の中で、「いずれにしろ、パサージュ・デ・パノラマがいまだに人気を保っているのは驚きである」と記している。また、1912年にも、「ゴロワ」紙の特集記事「パリのパサージュ」は、「おそらく、パリのパサージュの中で、かつての栄光のいくばくかを保っているのは」パサージュ・デ・パノラマだろうと書いている。

ランジェリーショップ「アン・フィル・ア・ラ・パット」のマネキン

ここで作ったメニューでなければ、格を落とす

だが、第一次大戦の勃発と同時に、その最後の繁栄の灯も消えてしまう。グラン・ブールヴァールの名物となっていた有名なカフェやレストランが次々に店を閉じ、グラン・ブールヴァール自体が銀行街と化してしまったからである。

1928年にパサージュ・デ・パノラマを訪れたマルセル・ザアールは、「アール・ヴィヴァン」誌に寄せた「パリのいくつかのパサージュの様相」という記事で、こう描写している。

「真夜中になるよりもはるか前に、どの店もカーテンを引いてしまい、パサージュに深い闇が訪れる。そのときのパサージュ・デ・パノラマはなんとメランコリックであることか! 天井から吊るされた丸いランプの球は月よりも青白い。そのみすぼらしい光が、ぼろぎれ、紙類、それに水の流れていたゴミ箱など、日中の残骸の上にゆらゆらと揺れている」

この様子は、基本的に現在も変わっていない。とくに、後から作られた支脈の歩廊においては、寂れ方はザアールが書き留めたように「メランコリック」であり、ある種、陰惨である。つまり、品よく寂れているというのではなく、下品な寂れ方をしているのである。

それは、入居している店舗が、エスニック系のレストランであったり、三流のファースト・フード店であったり、古着店であったりするためだが、しかし、それでも、かつての栄光をしのばせる店は何軒か残っている。

その代表的な一軒が、名刺や封筒、招待状、メニューなどを活版で印刷する「ステルヌ」である。ステルヌはパサージュ・デ・パノラマとともに200年の歳月を刻んできた老舗で、その店構えは1834年の改装の頃からほとんど変わっていない。ヨーロッパ各国の宮廷や政府は、舞踏会や夜会を催すときにはいまだにこのステルヌに招待状の印刷を依頼するし、ミシュラン三つ星のレストランはここで作ってもらったメニューでなければ、格を落とすとさえ言われている。私も、いずれ、記念パーティーでも開くときには、このステルヌに招待状を発注したいと思っている。

ステルヌの印刷見本
土地柄、古切手や古絵葉書の店が多く集まる

最後に、言い忘れたことを付け加えておこう。パサージュ・デ・パノラマは、競売場のドルオー会館が近いということもあって、古切手、古コイン、古絵葉書などの店が多く集まる「コレクターズ・メッカ」となっており、この手の趣味を持つオタクたちにとっては、パサージュ・デ・パノラマは外すことのできない巡礼の地として崇められている。こうした特異な愛好家たちの生態を観察してみたいと思うむきは、一度、散策を試されたらいかがだろう。

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photos:鹿島 直(NOEMA Inc. JAPAN)

Profile

鹿島茂

かしましげる 1949年横浜に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。2008年より明治大学国際日本学部教授。20年、退任。専門は、19世紀フランスの社会生活と文学。1991年『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞、96年『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞、99年『愛書狂』でゲスナー賞、2000年『職業別パリ案内』で読売文学賞、04年『成功する読書日記』で毎日書評賞を受賞。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。書評アーカイブWEBサイト「ALL REVIEWS」を主宰

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