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パンデミック、戦争、そして飢餓……。さまざまな写真に内在された「死」の痕跡について東京で想いを巡らせる。【what to do】

自らの「メメント・モリ」展を思い描きながら観る

作品が内包する「死」の刻印に眼を凝らすだけでなく、「写真はすべて死を連想させる」のだとしたら、「こんな作品があってもいい」と思いながら展示を観ても面白いだろう。例えば、今回、展示されている牛腸茂雄の『日々』(1967)からの作品。いずれも味わい深いが、『Self and others』(1994)の表紙に使われている濃霧の中を走り去る子供たちの写真も合いそうだ。さらに収蔵されているのかわからないが、ポール・フスコの『RFK』(1993)も並べて観てみたい。これは暗殺されたロバート・ケネディの遺体を運ぶ列車に乗り込んで、それを見送る沿道の人々を撮影した写真。あるいは家族のプライヴェートな遺影こそ、今回の展示に相応しいと思った人もいるかもしれない。もっとも、それを言い出したら切りがない。企画担当者も展示作品の取捨選択にはきっと悩んだはずだ。

自宅で飾っている牛腸の作品。『Self and others』の表紙に使われているのがこの写真。いつごろ手に入れたのか忘れてしまった(撮影・高橋直彦)

「死」を通して「日常」のかけがえなさを気づく

『メメント・モリ:死を想え』から作品を展示している藤原新也さんが今展の図録に「メメント・モリとは何か。」というエッセイを寄せている。近代の資本主義が発達する中で、忌むべきものとして隠蔽されてきた「死」が、さまざまな災害やパンデミック、そして戦争などによって排除できなくなりつつある時代に私たちが生きていることを指摘している。

藤原新也《死のとき、闇にさまようか光に満ちるか心がそれを選びとる》〈メメント・モリ〉より1972年 発色現像方式印画 東京都写真美術館蔵©Shinya Fujiwara

その点で「メメント・モリ」をテーマにした展示は時宜に適った企画なのだろう。展示を見終わっても気分が滅入ることがない。むしろ、清々しい気持ちにさえなる。さまざまな写真を通して「メメント・モリ」を感じ、何気なく過ごしていた日常のかけがえのなさに気づかせてくれるからだ。

Profile

高橋直彦

『マリ・クレール』副編集長。「メメント・モリ」関連では事故や犯罪現場のルポルタージュ写真も「死」を濃厚に漂わせる。欧米の美術館では、こうしたグロテスクになりがちな作品をあっけらかんと展示していて驚くことがある。

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