鹿島茂と猫のグリの「フランス舶来もの語り」【エスプレッソが市民権を得るまで】
フランスのカフェで主流なのは、日本でいうコーヒーではなくエスプレッソ。その歴史をたどると、意外と新しくて──。フランス文学者であり、その博覧強記ぶりでも知られる鹿島茂さんが愛猫のグリ(シャルトリュー 10歳・♀)とともに、今では私たちの生活にすっかり溶け込んでいる海外ルーツのモノやコトを語ります(本記事は鹿島茂:著『クロワッサンとベレー帽 ふらんすモノ語り』(中公文庫)から抜粋し作成しています)
戦前にはなかった飲み物
戦前にパリを訪れた日本人の紀行文を少していねいに読み返しているのだが、そこで気づいたのは、彼らがカフェで飲んだコーヒーは、現在パリのカフェで出てくるそれとはあきらかにちがっていることだ。
すなわち、フランス語でいうところのエクスプレス express、つまり、われわれが、エスプレッソ espresso とイタリア語で呼んでいる、あの蒸気の機械で淹れる苦いドゥミ・タス・コーヒーは、戦前には存在していなかったということである。もし、エスプレッソがあったなら、戦前の人間にとってはかなり違和感があったはずだから、必ず書き留めていただろうに、いっさい記述がない。ということはエスプレッソはまだ出現していなかったということになる。
それもそのはず、エスプレッソは1946年にイタリア人のガッジアという人物が発明した飲み物なのである。蒸気を使うコーヒーの淹れ方は19世紀にすでに考案されていたらしいが、普及したのはこのガッジアのエスプレッソ・マシンの発明以降らしい。
では、これがいつごろフランスに入ってきたのかというと、正確なところはわからない。おそらく1960年以後ではないかと思われる。というのも、1962年刊の『グラン・ラルース』百科事典には載っていないし、われわれが1968年に大学に入学したときに使った仏和辞典にもこの意味は記されていないからだ。1950年代のロベール・ドワノーの写真にもエスプレッソのドゥミ・タスは写っていない。
ただ、60年代の後半に渡仏した先輩たちの話ではすでにそのころにはあったというから、わずか数年のあいだに急速に普及したことになる。