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Culture

【鹿島茂・パリのパサージュ・8】ゾラの小説のモデルが造ったパサージュ・デ・プランス

コロナ禍で旅行に行けない今、極上のエッセイで楽しむパリ散歩はいかが?  フランス文学者の鹿島茂さんにはパリに行くたび足を運ぶ場所がある。それはパサージュ。「パサージュには、バルザックやフローベルの生きた19世紀という『時代』がそのままのかたちで真空パックのように封じ込められている」という鹿島さんのガイドでとっておきのパサージュへとご案内。今回は「パサージュ・ヴェルドー」へ。 (本記事は鹿島茂:著『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』(中公文庫)から抜粋し作成しています)

華々しい開業後の倒産、逮捕……

19世紀のパサージュ建設フィーバーの掉尾(ちょうび)を飾るパサージュ。建設は第二帝政期の1860年。建築主は第二帝政の地上げと金融・鉄道戦争の主役として、ゾラの『金銭』や『獲物の分け前』などのモデルの一人ともなった銀行家のミレス。ミレスは、ブールヴァール・デ・ジタリアンとリシュリュー通りを結ぶこの角にパサージュを造れば、リシュリュー通りの金融街とパリ最大の繁華街であるブールヴァール・デ・ジタリアンを直結し、消費者を呼び込むことができると踏んだにちがいない。

もう一つの狙いは、パサージュ・ジュフロワがパサージュ・デ・パノラマの延長となることで人出を呼びこんだのにならって、当時、ブールヴァール・デ・ジタリアンの反対側にあったパサージュ・ド・ロペラの延長となることを目論んだのである。



パサージュ・デ・プランスという名称は、ここにオテル・デ・プランス・エ・ド・ルーロップという高級ホテルがあり、それをミレスが買収したことによる。ミレスは、セーヌ県知事のオスマンが新築パサージュ許可の条件として課した完全鉄骨化やガス灯の配備などすべて満たした豪華なパサージュを開くと豪語して、建設に踏み切った。

こうして、パサージュ・デ・プランスは1860年の9月に華々しくオープンした。時代は第二帝政バブルの絶頂期で、消費文化はその頂点を極めようとしていた。新しいパサージュにはバラ色の未来が用意されているように見えた。

ところが、オープンから1カ月後、カタストローフが襲う。ミレス銀行が突然、倒産したのだ。そればかりか、ミレスが業務上背任などのかどで逮捕され、マザス刑務所に収監されてしまったのである。そのため、「パサージュ・ミレス」と呼ばれていたこの新興パサージュはふざけて「パサージュ・マザス」と呼ばれるようになる。

パサージュ・デ・プランスの権利は債権者のコンパニ・ダシュランス・ジェネラル(今日のAFGの前身)に移り、ここが経営母体となるが、一度ケチのついたパサージュに人出は戻らなかった。ギャルリ・コルベールの場合と同じように、豪華だが、どこか冷え冷えする印象が大衆に嫌われたのかもしれない。アルフレッド・デルヴォーは、1867年に、早くもこう書いている。

「パサージュ・デ・プランスは、ミレス氏が金融界で羽振りをきかせていた頃にはパサージュ・ミレスと呼ばれたところだが、パサージュ・ジュフロワやパサージュ・デ・パノラマとは異なり、ほとんど人通りがない。パサージュ・ヴェルドーと同じように閑古鳥が鳴いているのである。ブールヴァールの姫君たちもここを好まない。むしろ、彼女たちとは無縁のまっとうな散策者たちにことのほか好まれているようである」(『パリの歓楽 挿絵入り実践ガイド』)

美しいステンドグラスのあるロトンド

このパサージュの「まっとうな」雰囲気は1878年に万博を当て込んで出版された『パリのブールヴァール』という、マルシアル・ポテモンの挿絵の入った案内書でも強調されている。

「パサージュ・ド・ロペラの正面にあるパサージュ・デ・プランスはなんという品の良さだろう。いかがわしいバサールを思わせるものとてなく、人を不安にさせるような私娼とて一人もいない。パサージュ・デ・プランスは、快楽のためにあるのではなく、商業のために生きている。このパサージュの真ん前にあるディスデリの写真スタジオに出掛けてポートレートを撮ってもらってから、あの有名な銀行家のミレスに会いにパサージュに出掛けた新顔女優がいたと皆が噂したあの時代はどこにいってしまったのだろう」(ザヴィエ・オーブリエ)

しかし、これだけ「健全さ」を強調されるようなパサージュに人気が集まるわけがなく、隣のブールヴァール・モンマルトルの二つのパサージュのような人出はついに確認されなかった。

有名店に文化人が集った

その代わり、このパサージュには、文学史に名を残す文芸レストラン「ペーテル」があり、カチュール・マンデス、ボードレール、テオドール・バンヴィル、それにロートレアモンも寄稿した「ルヴュ・ファンテジスト」誌に拠るパルナス派の詩人たちのたまり場となっていた。このレストランの大広間はかつてのオテル・デ・プランスの宴会場で、文人たちの宴会がよく行われた。ヴィルメサンが率いる「フィガロ」紙が催した大宴会はここで開かれたのである。

ほかに、有名店としては、海泡石のパイプを専門に扱っていることで知られる「オ・カリエール・デキューム」もあり、通の間では愛されたパサージュだったが、大衆的な人気は得られぬままに終わった。

パサージュ・デ・プランスの運命にとって決定的だった変化は、そこの客を呼び込むはずだったオペラ座がルペルティエ通りからオペラ広場に移り、それに伴って、パサージュ・ド・ロペラの取り壊しが決まったことだろう。パサージュ・ド・ロペラの解体は結局、遅れに遅れて1925年になるのだが、パサージュ・デ・プランスはすでに、オペラ座の移転の時点で衰退を運命づけられていたのである。

しかし、早めに衰退が始まった割には、パサージュ・デ・プランスはよく生き延びた。だが、1990年の7月に、その所有者であるAGFはついに全面的取り壊しを決定、ここに、19世紀最後のパサージュは歴史の幕を閉じたかに見えた。

その後、パサージュ愛好家たちは、パサージュ・デ・プランスが元のイメージで復元されるのか、それとも、まったく姿を変えてしまうのか固唾を飲んで工事の進展を見守っていたが、1995年、リニューアル・オープンした姿を見て、ホッと一安心した。少なくとも、その内部は、元のイメージにかなり近いかたちで復元されていたからである。

格調高い復元に成功したが……

ただ、残念なことに、この復元パサージュには今度もまた人気がでなかった。その結果、何度かテナントが代わり、いまでは、「ジュエ・クラブ」の大型の玩具店が、すべてのフロアーを借り切って営業している。少子化傾向に歯止めがかかり、ベビー・ブームが到来したフランスの社会状況を睨んでのことだろうが、しかし、何度か足を運んだ印象でいうと、客が殺到しているという印象は受けない。そのうちに、全面撤退もありうるのではないか

どうやら、このパサージュには、「不人気」の地霊(ゲニウス・ロキ)が住み着いてしまっているようだ。恨みを呑んで死んだミレスの怨霊のせいなのだろうか?

photos:鹿島 直(NOEMA Inc. JAPAN)

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Profile

鹿島茂

かしましげる 1949年横浜に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。2008年より明治大学国際日本学部教授。20年、退任。専門は、19世紀フランスの社会生活と文学。1991年『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞、96年『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞、99年『愛書狂』でゲスナー賞、2000年『職業別パリ案内』で読売文学賞、04年『成功する読書日記』で毎日書評賞を受賞。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。書評アーカイブWEBサイト「ALL REVIEWS」を主宰

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