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「ハルノブムラタ」デザイナーの足跡。ジル・サンダーで学んだブランドづくり

東京コレクションで、本場ミラノの風を吹かせているブランドがある。村田晴信が手掛ける「HARUNOBUMURATA」は、シーズンを重ねるごとに周囲の期待以上のコレクションを更新してきた。そんな若きデザイナーに、ブランドを立ち上げるまでの経緯、東京を拠点にしながら市場に忖度せずミラノで培った手法で服作りを続けている理由、ドレスを通して表現したいことをきいた。前編では、村田晴信の素顔に迫る。

PRの経験も、村田晴信デザイナーになるまで


——ファッションを好きになったきっかけは。

姉がいて、当たり前に家にファッション誌があり、『パラダイス・キス』などファッションデザイナーをテーマにした少女漫画もよく読んでいました。制服がある学校に行ったことがなく、高校生のころには古着屋で買ってきた服をリメイクしたりしていたんです。手を動かしていくうちに、服作りを職業にしたいという気持ちが増していきました。

——HARUNOBUMURATAを立ち上げるまでの経緯を教えてください。

高校卒業後、エスモード ジャポンで3年間学びました。最終学年の年に神戸ファッションコンテストが開催され、受賞するとミラノやパリに留学ができたんです。受賞することができ、奨学金をいただきました。卒業と留学が決まって時間があったので、ショールームのステディ・スタディでインターンも経験しました。いつか自分のブランドをしたいと考えていたので、ブランドの見せ方やコミュニケーションが大切になるだろうと。その現場を見てみたいと思っていたところ、ちょうど募集していて半年ほど在籍しました。イタリアでは、ミラノにあるマランゴーニ学院のマスタークラスへ通いました。働いてから学びに来ている人もいました。2011年頃には、インターン先を探し始めていましたがなかなか見つからず。ちょうど、イタリアファッション協会主催のネクストジェネレーションというコンペがあり、勝てば、ミラノコレクションでランウェイ形式の発表の場をサポートしてもらえるというものでした。

専門学校時代に「神戸ファッションコンテスト」を受賞した「静謐」をテーマにしたシャツ。ミラノ行きが決まった作品でもある。 写真:デザイナー提供

そこで選んでいただき、HARUNOBUMURATAの前身となるコレクションをミラノで発表できました。同時に審査員だったジョン・リッチモンドのオーナーに、デザイナーとしてオファーをいただいたので3年間働きました。レディースメインで、メンズのデザインもしました。このブランドは、プリントやししゅうが多い華やかなブランドで、正直自分のテイストとは真逆。いくつかのブランドからオファーもいただいていて可能性を模索していましたが、ジル・サンダーでインターンをしていたイタリア人の友人が辞めるタイミングで紹介してもらい、デザインチームの一員として入社することになりました。

入ったときはディレクターがロドルフォ・パリアルンガでしたが、その直後にリブランデイングすることになり、ルーシー&ルーク・メイヤー夫妻が来ました。3年間働いて、2018年に自分のブランドを始めるために帰国しました。ファーストコレクションの発表の場をイタリアファッション協会に相談したところ、公式スケジュールの中で、インスタレーションという形で参加をさせてもらえることになったんです。

——海外のコンペティションに多数参加されていますが、日本で働くことは最初から考えていなかったのでしょうか。

ずっと海外のブランドに憧れがあったので、アパレルの大手企業に就職することに違和感を感じていたかもしれません。就職活動をやってみたこともありましたが、納得できていないからか、どこの会社にも引っかからなくて。やっぱり違うんだと思い直し、神戸ファッションコンテストのコンペに全エネルギーを注ぎました。エスモードの最終学年は1年かけて、自分のデザイナーとしてのコンセプトを探しながら卒業制作をします。その延長で作品を作り、提出しました。とてもミニマルな作品でしたが、評価してもらえました。イタリア人の審査員に“このテイストを生かすならミラノに行ったほうがいい”と言われ、イタリア行きを決めました。

イタリアで見つけた日本人である自分の強み

——日本とイタリアでファッションの教育に、どんな違いを感じましたか。

学校の特色にもよると思いますが、イタリアは頻繁にデザイナーにプレゼンをしたり、現地の企業とのコラボレーションを行ったりします。卒業後には企業研修ができるシステムもある。一方、日本で通った学校はドレーピングなどの実際に服を作る能力とデザインのコンセプトの追求を2本柱で学んでいく。技術的なノウハウが身につきますが、実務面は会社で働きながら学んでいくことになります。

——マランゴーニ学院で学び、意識や価値観が変わったことはありましたか。

日本人の自分がどう周囲の目に映るのか、でしょうか。クラスは30人ほどで、そのうちイタリア人は4人くらい。国際色豊かな環境で、生徒の作品にお国柄が出るのは興味深かったですね。自分自身は、すごくミニマルなものを作る人だったと思われていたようです。包丁をすっと入れた感じというか、“素材を生かした鮨(すし)”みたいな所作を含めたデザインやムード。それが伝わって、西洋の人たちからしたら前衛的(?)に見えたんだと思います。俯瞰して自分を見つめられた、いい経験ができたと思います。

——日本で学んだことは、イタリアで生かせましたか。

技術は、全く負けていないなと。日本でやってきたことのレベルの高さを実感しました。それが、現地で働く上でも、デザイナーとしてのストロングポイントになりました。ジル・サンダーの面接のときも、実際に作った服を持って来てと言われ、ドレーピングで作った服を持参しました。

ジル・サンダーの転換期3年間で学んだこと

——ジル・サンダーでは、どのようにキャリアを積まれたか教えてください。

入ってすぐはジャケットを作るテーラリングの部署で、ヘッドデザイナーのクリストファー(Christopher Laszlo)と一緒に働きました。彼は、建築家みたいに定規でひいた完璧なラインでデザイン画を描くようなタイプ。でも、一緒に働くうちに“布を動かして服を作る方が得意そうだ”という話になり、ドレス部門に異動しました。ラフ・シモンズの時代にドレスを担当していたパトリック(Patrick van Ommeslaeghe)という大ベテランと仕事をすることになったんです。パトリックはクリストファーとは真逆で、太いマジックで抽象的にデザインを表現するような人。その極端な2つの服の作り方が1つのブランドに同居しているのは素晴らしいと思いましたね。完璧な美を求める姿勢がありながら、そこに傾倒しすぎずに、偶然性や瞬間的な美しさを見いだすこともある。この2人と働けたことが自分のキャリアにとってとても大事なことでした。


——ルーシー&ルーク・メイヤー夫妻に変わってからはどんなことを?

その1年後に2人がクリエイティブディレクターに就任し、ブランドを生まれ変わらせるためのデザイン、ヴィジュアル作りまでをそれぞれが手がけ、そのプロセスに関わることの出来た経験は自身のブランドを立ち上げるときに参考になりました。トップが変わったことで、それまでは、ヘッドデザイナーがトップにいてデザイナーがその下で働く階級があったのですが、それがなくなり全員フラットになりました。なので、ヘッドデザイナーからしたらプレッシャーも感じていたと思いますが、下のデザイナーもチャンスさえあれば、評価されるチャンスがあるとメラメラしていました。

そのような環境で最初のコレクションを完成させました。デザインチームは、ポーランド、アルゼンチン、ギリシャなどいろんな国籍の人が集まっていました。だからこそ世界観に深みが出たのだと思います。それまでは、デザイナーの仕事の範囲が服を作るまでだったのが、ルークさんが理論的にヴィジュアルをどうやって作るかを考え、ストリートテイストのロゴを大胆に打ち出したり、映画監督のヴィム・ヴェンダースとコラボレーションして映像作品を作ったり。ブランドのロイヤリティを高めて、ミニマルなピースの中に着る人の人間性みたいなものを見いだすのが彼らのやり方。ジル・サンダーご本人と話したときも、そう言ったキーワードが出てくることはありました。“どうあるべきか”みたいなものを、服だけではなくブランドとしてどう表現していくか。そのプロセスに関われたのは良かったことですね。

photo: Morikawa Eri, intervew&text: Aika Kawada, edit: Mio Koumura

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Profile

村田 晴信 / HARUNOBUMURATAデザイナー

1988年、東京生まれ。エスモード ジャポン東京校出身。在学中より数々のコンテストで入賞を果たし、卒業後はPRエージェント、ステディスタディでアシスタントを務める。在学中に神戸ファッションコンテストで特選を受賞し イタリア留学資格を獲て、2010年に伊・マランゴーニ学院に入学。12AWミラノコレクションにてデビュー後、ジョンリッチモンドでデザイナーの経験を積み、ジル サンダーではウィメンズデザインチームに所属。2018年に帰国し、「HARUNOBUMURATA」を始動。

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