ソムリエがいる旅館【三澤彩奈のワインのある暮らし】

山梨県の中央葡萄酒の醸造責任者として、豊かな自然の中で日々ブドウの栽培と醸造に向き合い、「甲州」の名を世界に広める三澤彩奈さん。今回は、ソムリエのいる旅館についてつづります。

山梨県の中央葡萄酒の醸造責任者として、豊かな自然の中で日々ブドウの栽培と醸造に向き合い、「甲州」の名を世界に広める三澤彩奈さん。今回は、ソムリエのいる旅館についてつづります。
自然に囲まれた上質な泉質の温泉につかり、地元の食材を楽しみながら、そこにワインやお酒があったら、最高のぜいたくというものです。ワインラヴァーにとっては、やはり食事後に泊まれたらうれしいですし、特にソムリエがいる旅館は、ワインリストも充実していて、料理に合わせてワインがペアリングとして提供されることもあり、とても魅力的に感じられます。お料理の合わせ方、提供温度、グラスの選択、注ぎ方などは、ソムリエによって様々です。そのアプローチによってワインの本質が変わるわけではありませんが、ソムリエは、飲み頃や状態に合わせて、一番美味しく味わえる方法でワインを提供してくれる存在です。
旅館の食事というと、多くの方が和食をイメージされるのではないでしょうか。「和食にワイン?」と疑問を持たれてしまいそうですが、私の地元、山梨県では、かつてワインは「葡萄酒」と呼ばれ、日常的に楽しまれてきました。昭和の一時期には、山梨県内には3000場を超える醸造所が存在していたことが記録として残されています。私の祖母は、毎晩、湯飲みでワインを飲みながら、一日の疲れを癒やしているかのようでした。すし屋、焼き鳥屋、天ぷら屋に行っても、大抵白ワイン「甲州」が置かれていたこともあり、私にとって、和の食卓でワインを楽しむ光景はとても自然なものでした。
都市部でも和食にワインを合わせることは一般的になりましたが、地方を訪ねてみると、必ずしもそうではないことを感じます。そういった中で、地元に所縁のあるソムリエたちが多様な楽しみ方を取り入れようと奮闘している場面に出会いました。今回はソムリエがいる旅館として、宇奈月温泉(富山県黒部市)と伊香保温泉(群馬県渋川市)の二つを紹介していきたいと思います。
1923年に開場した宇奈月温泉は、無色透明の弱アルカリ性の単純泉で、保湿効果の高いメタケイ酸などの成分を多く含む美肌の湯としても知られています。そして、何と言っても、日本三大渓谷の一つ、黒部峡谷の玄関口に位置し、圧倒的な美しい自然に魅了されます。
3月上旬に訪れたとき、宇奈月温泉はまだ残雪深く、黒部峡谷は秘境そのものであるかのように、私の目に映りました。旅館「TOGEN」のオーナーソムリエの石田唯一さんによると、例年であれば、イワナなどの魚釣りに訪れる方が増える時期だそうですが、今年は雪のせいかまだ少ないようです。

うかがった旅館「TOGEN」では、蟹(かに)のシーズンを迎えていました。富山新湊漁港で揚がった蟹を調理直前まで生簀(いけす)に入れているため、蟹の刺し身も楽しむことができます。石田さん自らが漁港へ出かけることもあるそうで、私がうかがった日も、石田さんが市場で求めた蟹をいただきました。そして、その蟹に合わせるワインは、刺し身から焼き蟹、蒸し蟹、天ぷら、しゃぶしゃぶなど、調理方法によって変化していきます。蒸し蟹には、宇奈月温泉の源泉を使用して蒸しあげています。

海の食材が豊富な富山県ならではですが、蟹のシーズンを終えた後も、白エビやホタルイカなどの春の地元食材も楽しむことができます。北陸新幹線の「黒部宇奈月温泉」の開業により、アクセスがしやすくなりました。黒部宇奈月温泉駅からは、富山地方鉄道に乗り換え、宇奈月温泉駅で下車します。

4月中旬から11月末にかけては、黒部峡谷をトロッコ電車が駆け抜け、特に紅葉のシーズンは観光客でにぎわうのだそうです。しかし、石田さんは、閑散期と思われがちだった12月から3月にお越しいただいたお客様にも同じようにお喜びいただきたいとおっしゃいます。そのために、蟹などのその土地ならではのメニューを考案するだけではなく、ソムリエならではとも言える、料理とワインを合わせる「アルコールペアリング」を温泉街全体で充実させました。

石田さんは「10年前の新幹線開業までの宇奈月温泉は、冬季は繁忙期の3分の1ほどの宿泊数だった」と語ります。各館の12月と1月に忘新年会がある程度で、個人のお客様はほとんど無い状態で新幹線が開業し、首都圏からの宿泊客が増えたものの、何もしないと開業効果は続かないと互いに士気を鼓舞し合ったそうです。
宇奈月温泉全体で危機感を持ち続けたこと、どのシーズンに訪れたお客様も同じように喜んでいただきたいという気持ちから生まれた発想が、宇奈月温泉に変革をもたらしているように感じました。

群馬県の奥伊香保に構える「旅邸 諧暢楼」のルーツは約400年前、武田信玄に仕えた小笠原若狭守の家臣、福田家が伊香保に入植したことから始まります。明治初頭、新しいおもてなしを求めて14代当主・福田輿重氏がこれまでとは趣異なる宿「諧暢楼」を開きました。「諧」は安らぎを意味し、「暢」はゆったりとお過ごしいただきたい、その思いを込めて名付けられたそうです。平成に入り、17代目朋英氏がこれまで以上のおもてなしを追求したいという思いから、8室のみの「旅邸 諧暢楼」を開業されました。
すべてにおいて、贅沢でハイレベルなおもてなしを追及する「旅邸 諧暢楼」。4年前に初めてうかがった時から、食事処茶寮の鈴木正子ソムリエは、ワインや日本酒をお料理と一緒に楽しむペアリングメニューを模索し、お客様により特別な食事時間を提供できるよう、地道に活動している姿が印象的でした。鈴木さんを見ていると、ソムリエとは、生産者や料理人とお客様をつなぐ橋であることも実感します。
渡邉要料理長の作る季節の和の創作料理とともに提供される、鈴木さんのセレクトによるワインと日本酒のペアリングは、3種グラスワインのハーフコースと、6種のフルコースとの2種類から選ぶことができます。

万葉集第十四巻には、伊香保を詠んだ恋歌が9首あることからも歴史は古く、温泉街は情緒を感じさせます。伊香保温泉の泉質は、「黄金の湯」と「白銀の湯」の2種類があります。鈴木さんのお話を聞くと、伊香保温泉は、かつては黄金の湯のみだったところ、白銀の湯の湧出が確認され、それぞれお湯の色にちなんで名付けられたそうです。黄金の湯は、湯の中に含まれる鉄分が酸化して独特の茶褐色になるため、黄金の湯と呼ばれています。

「旅邸 諧暢楼」では、すべての客室に白銀の湯の露天風呂が置かれています。大浴場には、黄金の湯と、白銀の湯の2種類の泉質を楽しむことができ、世界初のナチュラルイオンサウナも備えられています。

荘厳な自然の中にある宇奈月温泉と、歴史と風情を感じる伊香保温泉。創業以来、同族経営を守る二つの旅館と、日本屈指の温泉地がいつまでも続いてほしいと願っています。
三澤彩奈(みさわ・あやな)
中央葡萄酒株式会社 栽培醸造責任者 山梨県の中央葡萄酒4代目オーナーの長女として生まれる。ボルドー大学ワイン醸造学部を卒業し「フランス栽培醸造上級技術者」の資格を取得。2007年に中央葡萄酒の醸造責任者に就任。栽培と醸造に取り組む。 2014年に世界的ワインコンクール「デキャンター・ワールドワイン・アワード」の金賞を日本で初めて受賞。甲州ワインの名を世界に。「グレイスワイン」は海外で最も飲まれる日本ワインに成長。2021年11月、「甲州」の新たな魅力を引き出した「三澤甲州2020」を発売。
「グレイスワイン」のウェブサイトはこちら
リンクを
コピーしました