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「サルヴァトーレ フェラガモ」創業者の妻ワンダ・ミレッティ・フェラガモ生誕100年。仕事と子育の両立を叶えたビジネスウーマン、ワンダの魅力と功績を紐解く

ワンダ・ミレッティ・フェラガモ/1970 年代

1960年夏、サルヴァトーレ・フェラガモがイタリア・トスカーナ州で逝去したことに伴い、妻であるワンダ・ミレッティ・フェラガモは6人の子供と会社の経営を承継し、社長に就任した。当時、女性が仕事に従事するということが珍しかった時代に、家事や子育てをしながら夫が残した会社の社長として手腕を発揮した。彼女の生誕100年を祝し、これまでどんな人生を歩んできたのか功績と魅力をたっぷりと紹介する。

サルヴァトーレが制作したシューズとワンダ・フェラガモ/1940 年代

ワンダ・ミレッティ・フェラガモとはどんな人?
ワンダは1921 年12 月18 日にイタリア・カンパニア州にある小さな町、ボニートに生まれる。偶然にもサルヴァトーレの生まれた町と同じ町に生まれたのだ。1960 年から2018 年に亡くなるまで、彼女は「サルヴァトーレ フェラガモ」のファッションハウスを支える聡明な頭脳と安定した手腕を持ち、家庭や家族への献身という伝統的な女性らしさの概念と、仕事や社会への献身を完璧に融合させた。1960 年8 月、最愛の夫サルヴァトーレが逝去した後、ワンダは会社の社長に就任し大きな成功を収める。

ワンダの家族
ワンダは小さな町ボニートの中流家庭で育った。母のジョヴァンナは、趣味の音楽をこよなく愛する、とても優しくて忍耐強い、繊細な人だった。南イタリアの多くの女性と同じように料理の腕前も上々で、一家の資産を管理することにも長けビジネス的なセンスも持ち合わせていた。一方、ボニー町の医師と主席判事を兼務する実力者だった父フルビオは、見た目もハンサムで素敵な人だった。頑固で厳しかったフルビオの姿は、道徳的な事柄や知識の豊かさなどの観点からワンダの成長にも大きく影響を与えることになる。また、思春期に悲しい出来事が立て続けて起こった。それは、兄の死と母の死という2つの出来事。この大きな喪失により、ワンダは青春時代のことを話したがらなかった。

最愛の夫、サルヴァトーレとの出会い
1940 年の夏、ミレッティ博士の家に立ち寄ったサルヴァトーレはワンダと衝撃的な出会いを遂げる。
「あなたは有名なサルヴァトーレ・フェラガモですね。女性のエレガンスに素晴らしい貢献をしてくれてありがとうございます」と、世界で最も有名な靴職人にワンダは挨拶をした。サルヴァトーレは、その言葉に心を打たれ同行していた姉に、「この子は私の妻になる」と予言めいたことを伝えた。この時、サルヴァトーレ42 歳、ワンダはわずか18 歳だった。

ワンダ・ミレッティとサルヴァトーレ・フェラガモ/1940 年代半ば

歳の差24歳。サルヴァトーレとワンダの結婚
一目惚れしたサルヴァトーレは、ワンダに花束やラブレターを送りデートに誘った。黒のスエードとパテントレザーをあしらい、アッパーが魚の鱗のように見える見事な靴を贈るなど、猛アプローチを続けた。
(現在この靴は、サルヴァトーレ・フェラガモのアーカイブに保管されている)

1940 年11 月9 日、サルヴァトーレのアプローチが叶い、ナポリのサンタルチア教会で結婚。出会いからわずか5ヵ月のスピード結婚だった。当時、戦争中だったイタリアで美しい結婚式をあげ、ハネムーンはソレントやアマルフィで過ごし、イギリス軍の空襲に見舞われても、「爆弾は結婚の栄誉を称える花火だ」と言って、サルヴァトーレは若い妻を慰めた。

1940年11月9日にナポリで行われたサルヴァトーレとワンダ・フェラガモの結婚式

順風満帆な結婚生活
フィレンツェで新婚生活がスタート。戦争の苦難にもかかわらず家庭生活は幸せなもので、フィアンマ、ジョヴァンナ、フェルッチョという3 人の子どもが誕生したことで、家族の喜びはさらに大きくなった。その頃ワンダは、完璧な主婦としてフィレンツェの社会に溶け込み、街を愛するようになっていた。

ワンダと娘のジョヴァンナ・フェラガモ/1940 年代
サルヴァトーレ・フェラガモとワンダ・フェラガモ夫妻と子供たち、ヴィラ「イル・パラージオ」の庭にて

ファッションの中心で活気に溢れる「サルヴァトーレ フェラガモ」
戦後、フィレンツェがイタリアファッションの中心地となったことで、オードリー・ヘプバーンなどのセレブリティと交流を深め、「サルヴァトーレ フェラガモ」の店舗は富裕層や国際的な顧客のための場所へと活気を取り戻していた。1947年にはアメリカ・ダラスで、サルヴァトーレがクリスチャン・ディオールとともにファッション業界のオスカーと呼ばれる名誉ある「ニーマン・マーカス賞」を受賞した。

女優オードリー・ヘプバーン(中央)とワンダとサルヴァトーレ・フェラガモ。1954 年、フィレンツェのパラッツォ・スピーニ・フェローニの前にて。写真:ロッチ
ワンダとサルヴァトーレ・フェラガモ/1950 年代

39歳という若さで社長となったワンダの功績
1960 年8 月7 日にサルヴァトーレは病気により逝去。その時、彼女は自分が会社を経営していくことに否定的な感情を持っていた。しかし、自分をサポートしてくれるスタッフと、また、すでに仕事を始めていた2人の子供を信じて会社を承継することを決心。社長に就任した。ワンダは、次々と入社してきた子供たちや、孫たちの助けを借りながら、ブランドの国際化、靴の工業化、製品の多様化、戦略的立地に出店する店舗の綿密な選択、そして何よりも、確固たる道徳的価値観、人と製品の品質に対する敬意に基づいた企業として、国際市場における「サルヴァトーレ フェラガモ」の評判を確立することに尽力した。夫や子供たち、そして会社の経営者に感謝しこの道を謙虚に歩んできたワンダは、1987 年にイタリア共和国功労勲章、2004 年にイタリア共和国大十字騎士団功労勲章を受章するなど、国内外で数々の賞を受賞した。

1980 年代のワンダ・フェラガモのポートレート。写真:エリザベッタ・カタラーノ
1982 年イル・パラッジオでエリザベッタ・カタラーノが撮影したワンダ・フェラガモとその子供たち

ワンダ・フェラガモ 生誕100年を祝した新たな取り組み
サルヴァトーレ フェラガモ美術館、フェラガモ財団、サルヴァトーレ フェラガモ社は、伝記の出版や2022 年5 月19 日に開催される展覧会など、ワンダ・フェラガモの生誕100年を祝した新たな取り組みをスタートする。

「Women in balance(ウーマン イン バランス)」と名付けられた展覧会では、ワンダがビジネスウーマンになった頃の好景気なイタリアで、職業、芸術文化、科学の分野で活躍した女性たち、自分の感性やアイデンティティを 形成して、大きく変化した現在を創造した女性たちの物語も紹介する。

2000 年代のイギリス女王エリザベス2 世とワンダ・フェラガモ
2004年3月8日、イタリア共和国大統領カルロ・アゼリオ・チャンピより大十字騎士団功労勲章に任命されるワンダ・フェラガモ

本展では、彼女たちの歴史上の出来事に焦点を当てるだけでなく、一歩先を見据える人たちが感じているON・OFFのバランス、人間関係、仕事や家庭などについても映し出されている。この、「ウーマン イン バランス」展は、科学的・市民的価値が認められ、閣僚会議議長部ミッションオフィスの国益記念日委員会の後援を受けた。

生前ワンダは、「私が仕事を始めた頃は、イタリアでは女性が会社を経営することはほとんどありませんでした。今は状況が変わってきており、喜ばしいことです。すべての女性が働いていますが、唯一の違いは、家庭外で仕事をしている人もいるということです。いずれにしても、主婦は会計士のように帳簿をつけ、インテリアデザイナーのように装飾し、シェフのように料理し、CEO のように家庭を運営する必要があり、妻や母としての仕事をしながら、これらすべてをこなさなければなりません。私たち女性は何でもやります。何をするか、オフィスがどこなのかは関係ありません」と語っている。

仕事と家庭、育児など両立することが当たり前となった今。その影には、女性のライフスタイルを輝かせてくれた第一人者であるワンダ・フェラガモのようなスーパーウーマンたちの功績があったからだ。生誕100年を記念した新たなプロジェクトが今から楽しみだ。

text:Miyuki Kikuchi

お問い合わせ先

フェラガモ・ジャパン/0120-202-170

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