シンガポールの国民的スターシェフ、アンドレ・チャンが帰ってきた。「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」に2026年3月31日に誕生した「1887 by André(1887 バイ・アンドレ)」。100年後の未来を見つめながら「真のラグジュアリー」を体感する旅へとゲストを誘(いざな)う。
ヴィクトリア朝時代から未来まで歴史を紡ぐ「100年続くレストラン」

「1887 by André」のエントランス。非現実的な時空旅行はここから始まる
ⓒRaffles Hotel Singapore
すべすべした深緑色の引き幕が開かれた瞬間、息を呑んだ。目の前に広がるのは、キラキラ輝く絢爛豪華なヴィクトリア朝の社交場。ここで遊ぶのは貴族? それともブルジョワ? 「熱帯のグラスハウス(温室)」をイメージした「1887 by André」のダイニングルームは、このホテルのコロニアル様式の白亜の建築スタイルとも相まって、ドラマチックな空間を創り上げていた。
ダイニングのデザインはビル・ベンスリー。築100年のダイニングルームをヴィクトリア朝と近未来をミックスした空間に劇的に変えた
「1887 by André」をプロデュースするのは、アジアを代表する世界的スターシェフ、アンドレ・チャン。台湾で生まれ、フランスで研鑽(けんさん)を積み、シンガポールに自身の店「Restaurant ANDRÉ」をオープン。2011年、ニューヨーク・タイムズ紙で「飛行機に乗ってでも行く価値のあるレストラン」に選ばれるなど、シンガポールを現在のような世界的ガストロノミー・デスティネーションに押し上げた立役者。いわばガストロノミー・ツーリズムの先駆者で、シンガポールの国民的ヒーローだ。
「1887 by André」をプロデュースするアンドレ・チャン。妻のパムと
メインダイニングをプロデュースするにあたり、「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」の蔵書や収蔵品をひもとき見いだしたのは、ヴィクトリア朝時代から現在まで継承されてきた、繊細な細工を施されたアンティークの装飾品、クラシカルな銀の食器、持ち重りするロゴ入りのカトラリー、燕尾(えんび)服の給仕が扱いそうな銀のテーブルワゴン、レトロなフォントも美しい当時のメニューなど。「新しい国」といわれるシンガポールの建国は1965年。一方「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」の開業は1887年。つまり国家より長い歴史がこの土地に確かに息づいてきたことを再認識した。
「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」の貴重なアーカイブを見せてくれたアンドレ。メニューだけでなく店舗デザインやユニフォーム、ロゴなど総合的にプロデュースした
「このメニューに記されたヴィクトリア朝時代の料理が、かたちを変えながら現在までつくり続けられてきたとしたら? そしてこれから100年後までつくり続けていくとしたら?」
シンガポールに恩返しできることがあるなら、それは新しい国に、未来へとつながる歴史を紡ぐこと。そこから「A Taste of Time(時代の風味)」というコンセプトが生まれた。
新時代のファインダイニングの真のラグジュアリーは「アラカルト」
パンデミックや戦争など、世界中で不安定さが増す中、旧来のファインダイニングのあり方が問われるようになり、今、世界中のトップシェフは、ファインダイニングの新しい存在意義を模索している。その流れのなか、世界的ムーブメントとなったレストラン主導の「セットメニュー(「オマカセ」は今や世界共通語だ)」や「一斉スタート」から「アラカルト」に揺り戻しがある。
ドリンクのシグネチャーは8種類のバリエーションが揃ったレモネード。オリジナルカクテルも楽しい
「1887 by André」のメニューはアラカルトが中心。時代を先取りしてそれをかたちにするスピード感や、「A Taste of Time」という唯一無二のコンセプチャルなメニューがいかにもアンドレらしい。何度でも食べたくなるクラシックメニューに、驚きのあるクリエイティブな料理や、往年のアンドレファンにはたまらないメニューが織り込まれている。「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」のアーカイブから発掘したヴィクトリア朝時代のメニューをモチーフにしたエレガントなメニューは、眺めているだけでも楽しい。
中国料理のようでもありフレンチの高級なコンソメスープのようでもある“タートルスープ” from 1887は絶品
© Raffles Hotel Singapore
たとえばヴィクトリア朝時代のメニューからインスピレーションを得た「“タートルスープ” from 1887」。マレー半島の最南端に位置するシンガポールで食べられていたのは、おそらくスッポンではなくアオウミガメで、現在ではワシントン条約で捕獲が禁止されている。それならアオウミガメを使わずに、ヴィクトリア朝時代のゲストがタートルスープを飲んで感じていたであろう、リッチでエネルギーが満ちてくるような味わいをどうつくり出すか。
アンドレは「海と山の恵みをひと皿に合わせる」というフランス料理のアプローチと技術に、中国料理でよく使われる、スープを入れた壺ごとひと回り大きな鍋に入れて加熱する「ダブルボイルド」という調理法を合わせ、チキンとグルーパー(ハタ科の白身魚)だけで風味豊かなスープに仕立てた。
「フォアグラのロワイヤル-メモリー」。有田焼「李荘窯」の器も当時のまま。「メモリー」と焼き印された小さな木のスプーンで
温かいアントレの「フォアグラのロワイヤル-メモリー」は、「オクタフィロソフィー(八角哲学)」というアンドレ独自の料理哲学に基づいて構成された、「Restaurant ANDRÉ」時代からの代表的な料理のリバイバル。「オクタフィロソフィー」とは、簡単にいうと、素材を主役に料理を構成する8つの要素ー素材そのものの味わい「ピュア」、素材の天然の塩味「ソルト」、生産者への敬意「アルチザン」、修業時代を過ごした南フランス「サウス」、食感「テクスチャー」、組み合わせのオリジナリティ「ユニーク」、過去の記憶に繋がる「メモリー」、その土地に根ざした「テロワール」のバランスを取ってひと皿に落とし込むことだ。
フォアグラとトリュフという、ともすればくどくなりそうな高級食材同士の組み合わせをふわっと軽やかに仕上げたこの代表作はフォアグラのイメージを変えた。アンドレと同世代の私にはノスタルジックな一品で、メモリーというサブタイトルにふさわしくさまざまな記憶を呼び覚ます。同席したZ世代にとっては目新しいようで、新鮮な驚きをもって受け止められていた。こうやって継承され、100年後も変わらずつくられていくことを願う。
「レ デクリネゾン」の「ル ヴェール(フランス語でみどり)/緑の森」。アボカドのスフレやピスタチオのアイスクリーム、抹茶のチョコレートなどグリーンのデザートが集合
© Raffles Hotel Singapore
彼らしい遊び心にあふれているのがデザート。「レ デクリネゾン」と名づけられたメニューには、「オレンジ」や「みどり」など「色」が並んでいる。一般的に「デクリネゾン」といえば、ひとつの食材をさまざまな調理法で料理して、ひと皿に盛り合わせるフレンチの技法のことを言う。それをアンドレは食材ではなく「色」をテーマに、多彩な調理法のデザートを集めた。銀のトレイでサーブされるこのデザートは、「1887 by André」に行ったら絶対にオーダーしてほしい。同席者と色違いでオーダーして、写真を撮ったら間違いなく「映え」る。
シェアスタイルの「マイ ベスト チキンライス」は2皿構成。チキンとそのスープ、米、というミニマムな要素を踏まえつつ、ジャスミンライスともち米の2タイプに再構築。特に筒状のもち米は、これまで食べたことがないおこげと自家製ジンジャーソースの組み合わせがめちゃハマる

他にも「マイ ベスト チキンライス」や「ラッフルズ ラクサ パエリア」などローカルフードを取り入れたメニューもある。「もっと技巧を凝らしたい自分をあえて抑えて、ローカルのチキンライスの構成要素に忠実に、けれども自分らしく、他では食べられない味に仕上げた」と言うチキンライスが気になりすぎて、結局予定を変更して、2日連続で「1887 by André」に行ってしまった。
「飛行機に乗ってでも行く価値のある」美味を求めてシンガポールへ
最近の世界の情勢を考えると、この夏のバカンスはアジアを選ぶ人も多いだろう。日本から毎日直航便が安定して運航しているシンガポールは、安心しておすすめできる旅先のひとつだ。街は清潔で治安がよく、公共交通機関が充実していて、女性ひとりでも旅しやすい。
シンガポールのアイコン、マーライオン
多民族カルチャーで、「マリーナ ベイ サンズ」や「ガーデンズ バイ ザ ベイ」といった近未来的なランドマークをはじめ、活気溢れるリトルインディア、エキゾチックなアラブストリート、マレー文化と中国文化がミックスしたプラナカン文化が息づくカトン地区など、アイコニックなスポットがコンパクトに共存していて、街を歩くだけでも楽しい。
「シンガポールスリング」の発祥といわれる伝説のバー「ロング・バー」など「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」のバーでは「SJ60」を記念して、2026年末までの期間限定で「抹茶スリング」が登場
また、2026年は日本・シンガポール外交関係樹立60周年のメモリアルイヤー。もともと親日国ではあるが、「SJ60」をキーワードにさまざまなプロモーションが開催されている。3年ぶりに訪れると、日本フレンドリー度がより増しているようで、滞在中何度も「歓迎されて旅をしている」うれしさを感じた。
美しい街を歩き、スパで癒され、アフタヌーンティーを楽しみ、アンドレの料理に身を委ねつつ、時を忘れて「私らしい真のラグジュアリー」に思いを馳(は)せる。今私たちが求めているのは、そんな身も心も回復する“ご自愛旅”なのかもしれない。
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ラッフルズ・ホテル・シンガポール・
「1887 by André」photo & text : 江藤詩文
Profile
江藤詩文(えとう・しふみ)
旅するフードジャーナリスト ガストロノミーツーリズムをテーマに、世界各地を取材して各種メディアで執筆。スターシェフをはじめ、各国でのインタビュー多数。訪れた国は約110カ国。著書に『ほろ酔い鉄子の世界鉄道~乗っ旅、食べ旅~』(小学館)シリーズ3巻。Instagram(
@travel_foodie_tokyo) でも美食旅情報を発信中。