「WATOWA」のルーツは学生時代から始まっていたとは!その後、小松さんはランウェイという空間づくりのほうにフォーカスし始めた。

「上京後に知り合い、お世話になっていた、モデルの山口小夜子さんやファッションジャーナリストの福田京子さんに同行させてもらい、さまざまなブランドのファッションショーを観に行きました。ショーの世界を少しずつ知っていくうちに現場を学びたくなり、『無償で何でもやるのでなにかお手伝いください!』と頼み込んで、いろんなところでインターンを始めることに。
お金ではなくて経験値が欲しいという僕の熱意を買ってくれる方が多くて、気づけば各所から毎シーズン呼ばれるようになっていきました。そのうちのひとつが、現「DRUMCAN inc.」の前身である田村事務所です。当時、演出家の田村孝司さんに付いて初めて入った現場は、予算のない中でファッションショーを作り上げていたので、ランウェイのカーペットを張ったり、照明機材を運んで設置する舞台美術のお手伝いから、お使いなどの雑用まで何でもやりました。その時、ひとつのファッションショーを全員でやり遂げ、その後に分かち合う達成感に、感動を覚えたんですよね」
ファッションショーは当然のことながら真剣な“ビジネス”。けれどそれと同時に、私が感じるのは、大人が全力で作るハイクオリティな文化祭という空気感だ。モデルとして、あの一体感の一員になれることに私自身いつも喜びを感じている。
「まさにそうです。プロの選手を目指すほどバスケットボールにのめり込んだ学生時代にも感じた、“大好きなその瞬間のために苦しいこともやる”、そんな感覚を改めて思い出して。制作や演出という業界の魅力を知って、デザイナーとはまた別の道も開けていきました」

その後、先輩から「ファッションやイベントの業界で今後ポジションを確立したいなら、海外に住んで歴史から知るべきだ」と助言を受け、悩みながらも勇気を出しロンドンとパリに移住。オーダーメイドの袴を作る仕事をしながら、イベントプロダクションのアシスタント経験を積んだ。小松さんはいつの時も二足三足の草鞋(わらじ)で進み、そのスタイルは今の 「WATOWA」にも繋がっていると感じる。そして2005年の帰国を機に、イベントプロダクション業に一本化することとなる。では、アートにはどのように接点を持ってきたのか?
同じ時代の仲間と、この世代から始まるカルチャーを
「美大にいたので、絵を描いている人はたくさんいて、アート自体はそんなに遠い世界のものではなかったです。日本でも海外でも、アーティストから衣装制作のオーダーがあり、お互いにお金がないから代わりに絵をもらう、という作品の物々交換をよくしていました。ただ、正直アートギャラリーって、たまたまの連続なのかもしれませんが、アートギャラリーに行った時に、愛想が悪い、敷居が高くて入りづらいというネガティブなイメージを学生時代に持っていて。ハードルが高くてとっつきにくいと思っていました。僕と同じように思っている人が、もしかしたらいるのかもしれません。
30歳で独立、『WATOWA inc.』を設立して、仕事を通して友人の作品を買うようになってからも、しばらくその印象は変わらなかった。でも、徐々にギャラリストの知人も増え、国内外のアートフェアなどに通うようになったときに、単純に僕はこの業界を知らなかった、食わず嫌いをしていただけだったと気づきました。ならば、アートビジネスの本流に身を置いているわけではない僕みたいなポジションだからこそできる、日本国内から世界に向けて発信していくようなアート業界の革命を起こせないかと思ったのが、本格的に足を踏み入れたきっかけです。
そもそもミュージアムの存在理由って、歴史を保存していくというのがひとつの役目なんですよね。博物を保管する『博物館』というものの中で、美術を専門に保存するのがアートミュージアム、『美術館』と呼ばれる。そこでは、ひとつの時代の大きな流れの中で、『この歴史を残し語り継ぐには、この作家とこの作家の作品を保存すべきだ』ということをみんなが論文に書き、収蔵される。そうすれば、100年後もそこにあるんですよ。今、教科書に載っているモネとかダリ、アンディ・ウォーホルもデュシャンも、“歴史”に残った人たち。マーケットに流通する作品は行き先が不安定ですが、ミュージアムに収蔵されればアートヒストリーになり、時代を語りながら何代にもわたり受け継がれ守られていく。時代背景や社会風刺を表すということでいえば、ファッションにも同じものを感じますが、アート作品のほうが後世に残りやすいですよね」