最近まで、機械式時計は機構が複雑なため、関心を示す女性は少ないと言われていたこともあった。ところが、機械式時計を腕にするというスタイルを最初に実現したのは、ある一人の女性だった。19世紀に海運国ナポリの王妃となったカロリーヌ・ミュラ。女性と時計の絆をひもとく連載の第一回は、両者の関係性が結ばれるきっかけとなった“エピソード0”ともいえる物語へと、しばしタイムスリップしてみたい。
世界初の腕時計を注文したナポリ王妃、カロリーヌ・ミュラタイムマシーンに設定した日付は、1810年6月8日。舞台は、フランス・パリのシテ島にある「ケ・ド・ロルロージュ39番地」。1775年からこの地に構える、名門ウォッチメゾン「ブレゲ」のアトリエだ。
製造台帳の29ページには、今しがた特別な2つのタイムピースがオーダーされたことが記されたばかりである。1点目は、複雑機構のキャリッジウォッチ(注:キャリッジウォッチとは18〜19世紀にヨーロッパの貴族や軍人たちが旅へ携帯するために作られた小型のトラベルクロックのこと)。もう1点は、5000フランの値をつけたであろうブレスレット用リピーターウォッチ(注:リピーターウォッチとは音で時刻を知らせる複雑式時計のこと)だ。ペンの跡もみずみずしく残る先にある、この2本目のタイムピースには「No.2639」の数字がつけられていた。
ブレゲの歴史的アーカイブが保存されているパリのヴァンドーム広場に保管されている製造台帳には、アブラアン-ルイ・ブレゲがパトロンのために製作をした魅力的な作品の全てが記録されている。左ページの上に「2639」の数字がある
この「No.2639」こそ、ナポリ王妃からの注文に応えてブレゲが制作した、これまでに知られている“世界初”の腕時計である。前例のない構造を持つ極めて洗練されたこのタイムピースは、極薄リピーターウォッチで、ケースのフォルムはオーバル型。温度計を備え、髪の毛と金糸を撚(よ)り合わせたブレスレットに取り付けられていた。完成したのは、オーダーから2年後の1812年12月21日だった。
だが、残念ながら、この歴史的タイムピースは現在その所在がわかっていない。アーカイブの記述からも、腕時計の詳細な特徴と、製作するうえでの各工程の完璧な概要が記録されてはいるが、サイズや文字盤の構成、ブレスレットの形、留め具などの情報はほとんどなく、スケッチも存在しない。ではなぜ、前述のような手がかりが得られたのか?
それは、幸運なことにこの時計が今でいうアフターサービスを受けた記録が台帳に残っているからだ。1849年3月8日付で、「パリ63, Rue d’Anjouに在住」のラスポーニ伯爵夫人から「No.2639」の腕時計が修理のために送付されてきたことが記録されている。この伯爵夫人は、ナポリ国王ジョアシャン・ミュラとカロリーヌ・ミュラの4番目の娘であり末っ子で、1825年にジュリオ・ラスポーニ伯爵と結婚したルイーズ・ミュラのこと。
世紀の大発明ともいえる時計は、母から娘へと大切に受け継がれていた。その後も女性の手に引き継がれていったかもしれない。いつの日か発見されるのを夢見たい。
19世紀初頭まで、時計といえばポケットウォッチが主流だった。しかし、当時の女性のドレスにはポケットはなく、懐中時計を持ち歩けなかったため、腕に身につけるスタイルが考えられたのではないかとされている。
皮肉なことに、このブレゲの最も輝かしい革新的なスタイルは、当時の人々にはあまり認知されなかったが、徐々に女性の間で流行することになる。女性が人前で時刻を確認するのはエレガントではないとされていた時代。仮にドレスにポケットがあったとしても、そこから大きなポケットウォッチを取り出し、蓋を開けて見るのはあまり美しい仕草には映らなかったはずだ。手首に巻いたケースに目を落とすだけで素早く時間を確認できる方が好まれたのは想像に難くない。
また、ブレスレットは宝石や金細工をあしらうことができるため、優雅な装飾品として流行していったのではないだろうか。男性用の腕時計が生まれるのは20世紀に入ってからのことである。その歴史からも、腕時計は女性のライフスタイルとともに進化していった誇るべきタイムピースの形なのだ。
2002年、この王妃の時計に着想を得たコレクションが誕生した。その名も「レーヌ・ドゥ・ナープル(フランス語でナポリ王妃の意味)」。オーバル型のケースや、ブレゲ針、ブレゲ数字といったブランドを特徴づけるデザインのタイムピースは、“世界初”の物語とともに人気を博した。
バリエーションも豊富にそろえ、王妃が好んだモチーフを組み合わせたり、ダイヤモンドや大粒のパールで華麗な装いをまとったハイジュエリーピースもお目見えし、ブレゲを象徴するレディスコレクションとなった。
そして、2025年、ブレゲ創業250周年を記念して、新たな「レーヌ・ドゥ・ナープル」へ。初めて独自に開発された「ブレゲゴールド」がケースやブレスレットに採用された。6時位置に、ダイヤモンドがスノーセッティングされた丸いセンターラグがあしらわれているのも特徴的だ。これは、パールをこよなく愛した王妃へのオマージュの一つである。
パールを愛した王妃にちなんだセンターラグ
文字盤も2タイプの新しいデザインで登場。一つは、夜空を思わせるアベンチュリンを配し、存在感のあるマザー・オブ・パールの月が巡るムーンフェイズモデル。もう一つは、マザー・オブ・パール文字盤に手作業で「ケ・ド・ロルロージュ」模様のギヨシェ彫りが施されたブレスレットモデル。ブレスレットは、オーバルケースとともにセンターラグからインスバイアされたリンクを連ねたスタイルになっている。さらに、文字盤にまでブレゲゴールドを用いたスペシャルな1点も。いずれも、12時位置に王妃の冠のようにペアシェイプのダイヤモンドインデックスが気品を添える。
もう一つ、持ち主にしか見えないケース裏にのぞくローター(注:自動巻きの機械式時計において、ゼンマイを巻き上げるための回転錘(すい)のこと)に「プチ・トリアノン」模様という新しいギヨシェ彫りが施されているが、これはブレゲとフランス宮廷との絆の深さを伝えるものだ。プチ・トリアノンはヴェルサイユ宮殿の敷地内に佇む小宮殿。王妃マリー・アントワネットが宮廷の喧騒(けんそう)を離れて過ごす私的な空間として愛された大切な場所で、ブレゲはそのプチ・トリアノンの修復を後援し、その歴史的な姿を後世へと受け継ぐことに貢献した。
ローターに「プチ・トリアノン」と呼ばれる市松模様のギヨシェ彫りが施されているのがわかる
「朝から夜まで、どんな場面でも寄り添うジュエリーとタイムピースを融合させた時計を作る」という思いで生まれた新生・王妃の時計は、モダンさと躍動感を備え、現代女性のライフスタイルに豊かに寄り添ってくれる。
「レーヌ・ドゥ・ナープル 9935」。自動巻き。18Kブレゲゴールド×ダイヤモンド+アリゲーターストラップ。ケースサイズ縦36.5×横28.5mm、厚さ10.3mm。¥10,098,000(ブレゲ ブティック銀座)
「レーヌ・ドゥ・ナープル 8925」。自動巻き。18Kブレゲゴールド×ダイヤモンド×マザー・オブ・パール。ケースサイズ縦33×横25mm、厚さ8.5mm。¥12,617,000(ブレゲ ブティック銀座)
「レーヌ・ドゥ・ナープル 8925」。自動巻き。18Kブレゲゴールド×ダイヤモンド。ケースサイズ縦33×横25mm、厚さ8.5mm。¥12,617,000(ブレゲ ブティック銀座)
世紀の大発明ともいえる“腕時計の生みの親”といっていいナポリ王妃について紹介したい。
ナポレオン1世の妹だったカロリーヌ・ミュラは、1805年に23歳で初めてブレゲの顧客となった。クロックから腕時計まで、生涯にわたり34点をブレゲに注文したといわれている。
彼女がナポリ国王のジョアシャン・ミュラと結婚したのは1800年。以降、野心家で美貌(びぼう)の彼女は、ナポリの産業と芸術の復興に尽くした。夫の不在時には、摂政として代理を務めるほどで、政治手腕にも長けていたと伝えられる。
文化への造詣も深く、当時始まったばかりのポンペイの遺跡やエルコラーノ遺跡の発掘調査を積極的に支援した。新古典主義の巨匠ドミニク・アングルなど芸術家のパトロンとなり、自身の肖像画などを数多く注文し、フランスでは「芸術の女王」とも称されていた。
アブラアン-ルイ・ブレゲのおかげで、今の機械式時計の恩恵を享受できる
芸術性を兼ね備えた作品は世界中の王侯貴族たちの間で話題となり、フランス王妃マリー・アントワネットもパトロンになった。当時知られていた全ての複雑機構を取り入れた懐中時計「No.160 マリー・アントワネット」は有名だ。1780年には宮廷に出入りする時計師に。フランス革命後はナポレオン1世とその家族が顧客リストに名を連ね、その影響からカロリーヌ・ミュラも顧客となったと考えられる。
この絆の深さに敬意を表し、2008年に行われたヴェルサイユ宮殿のプチ・トリアノン全面改修もブレゲの支援によって行われた。
時計の歴史を200年早めたと言われているアブラアン-ルイ・ブレゲの功績は偉大である。1780年の自動巻き機構や、1801年のトゥールビヨン(注:時計が重力から受ける誤差を相殺するための機構)と呼ばれる複雑機構の発明に始まり、針やインデックスのデザインやギヨシェ彫りなど、現在の腕時計に欠かせない要素を生み出した。その後も、革新を生み出すDNAは受け継がれ、現在、ブレゲでは数百件の特許を取得している。
リュウズを巻くことで爪を傷めることがないように自動巻き製造にこだわることや、バッグやデジタル機器、アクセサリーなどによって磁気帯びしやすい環境に置かれている現代のライフスタイルに合わせて耐磁性の高いムーブメントを搭載していることなども、ブレゲの功績といえるだろう。
photos: Breguet
text: Rica Ogura
Information
ブレゲ ブティック銀座 tel: 03-6254-7211
https://www.breguet.com
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